出自と地方の実績
- 魏源は字を文淵といい、建昌縣の人。永樂四年(1406年)の進士で、監察御史に任じられた。松江知府の黄子威が誣告された事件を明らかにし、浙東沿海の漁課を減らすよう奏請した。
- 陝西を巡按したとき、西安で大疫が起こり、治療して多くを救った。上奏して「諸府の倉粟は一千九十余万石を積み、十年分を支えるに足ります。いま民は疫病で農事を妨げられていますので、両税の半分を鈔で納めさせてください」と請い、認められた。凉州の土寇が乱を起こそうとしたときは、急ぎ討伐を請うて騒乱を鎮めた。二度喪に遭ったが、いずれも起復した。
河南の救荒と刑部
- 洪熈元年(1425年)、浙江按察副使として出た。宣徳三年(1428年)に召されて刑部右侍郎の職務を代行した。
- 宣徳五年(1430年)、河南が旱魃と飢饉で民の多くが流亡した。帝は源が清廉で実行力があるとして左布政使に任じ、駅伝を乗り継いで急ぎ赴任させた。当時は侍郎の許廓が撫輯に向かっており、廷議によって丁憂中の布政使李昌祺も元の官で起用された。源は許廓・李昌祺とともに倉廩を開き、未納の税と雑役を免除したので、流民は次第に帰り、雨も降って、その年は大豊作となった。
- 三年後に召還され、刑部左侍郎を授けられた。翌年、永豐の民である夏九旭らが大盤山に拠って乱を起こすと、帝は源が江西の人であることから鎮撫を命じ、都督の任禮が兵を率いてその後に続いた。到着前に官軍が九旭を捕らえたので、二人はそのまま四川で材木を伐採し、あわせて辺務を整えた。
宣府・大同の辺務と晩年
- 英宗が即位すると尚書に進んだ。正統二年(1437年)五月、大同・宣府の諸辺を整備するよう命じられ、臨機の処置を許された。源は都督僉事の李謙を独石の守備に、楊洪をその副に配し、萬全衞指揮の杜衡を弾劾して広西に戍らせた。
- 翌年、大同總兵官の譚廣が老齢であると奏上した。帝は黄真・楊洪を左右の參將として鎮守を補佐させ、諸将は粛然とした。天城・朔州の要害を巡行して将吏に分守させ、威逺衞を設け、䦕平・龍門の城を増修し、独石から宣府に至るまで墩堠を増設した。屯軍の租を一年免じ、火器を備蓄して辺備とし、権貴に頼って役を逃れていた者をすべて摘発して隊伍に戻した。
- まもなく、宣府・大同の軍務が長く弛緩しているとして、巡撫僉都御史の盧睿を召還し、兵部侍郎の于謙を鎮守參贊に推薦した。朝廷は于謙が山西・河南の巡撫にあたっているとして容れなかった。そこで言官は、辺境に臨んで大臣を勝手に入れ替えたことを源の罪とし、連名で弾劾し、あわせて源が御史であったころに贓罪を犯し、誥命を冒領したと訴えた。帝は源に功労があるとして不問に付した。
- 任務を終えて帰朝すると、都御史の陳智と直廬で罵り合い、智がこれを報告したので、詔によって両者ともに叱責された。旱魃の年に疑わしい獄案を上申し、これを天下に及ぼすよう請うて許された。まもなく裁判の不当を問われ、侍郎の何文淵とともに下獄したが赦された。また遼王貴烚の罪状を上申した際に内乱の件に触れなかったとして、三司の官とともに数か月詔獄につながれ、釈放されて復職した。
- 源は長く刑部にあり、量刑は寛平であった。陝西僉事の計資が「武臣の雑犯等の罪には俸を半減して極辺に謫すべし」と述べたときは、源はその主張が過酷だとして上奏してとりやめさせた。郎中の林厚が上申した、刁訟と告訐の禁止、理刑官の選抜、重囚の取り調べは必ず贓物によること、の四件は、いずれも源の議によって施行された。
- 正統六年(1441年)、足の病により朔日と望日のみの参内を許され、正統八年(1443年)に致仕して没した。