出自と御史
- 軒輗は字を惟行といい、鹿邑の人。永樂末年の進士で、行人司副を授かった。宣徳六年(1431年)、推薦によって御史に改まり、福建を巡按して害虫のような役人を除き奸を鋤き、風格が甚だ峻厳であった。
- 正統元年(1436年)、浙江の軍籍整理に当たり、職に堪えぬ官四十余人を弾劾した。五年(1440年)、「祖宗が御史の官を設けたのは職責が極めて重いからである。今、内外の諸司が事あるごとにほしいままに御史を遣わすのは制ではない。禁じられたい」と言い、ただちに可とされた。
浙江按察使の清廉
- この年、浙江按察使に飛び越えて抜擢された。前任者が奢侈だったので、輗は力めてこれを矯めた。寒暑を通じて青い布の袍一枚で、継ぎ当てがほぼ全面に及んだ。日ごろ粗食で、妻子が自ら井戸と臼の仕事をした。僚属とは、三日ごとに俸銭を出して肉を買うが一斤を超えないと約束したので、僚属はしばしば堪えかねた。旧知が来ても食事は一皿だけで、鶏や黍飯を出せば人は驚いて異例のことと思った。
- 当時、鎮守内臣の阮隨、布政使の孫原貞、杭州知府の陳復、仁和知縣の許僕は、いずれも官にあって廉潔で、その地方は大いに治まった。
- 温州・処州に銀山があり、洪武年間の年課はわずか二千八百余両であったが、宣徳のころには九萬余両に増え、民は命令に堪えられなかった。帝が即位すると大臣の議によって廃止された。このとき參政の俞士悦が再開を請い、「利が上に帰すれば、鉱山の盗はおのずと絶える」と言った。三司の議に下されたが、輗が力めて不可と主張して止んだ。その後、給事中の陳傅がまた請い、朝廷はにわかにこれに従い、ついに葉宗留の変を招いた。
- 會稽の趙伯泰は宋の後裔である。孝宗・理宗および福王の陵墓がみな有力な民に侵し奪われていると奏した。御史の王琳は「福王は元に降って北へ去った。山陰にどうして墓があろうか」と言った。伯泰は不服でまた訴えた。帝が輗と巡按御史の歐陽澄に再調査を命じ、輗は「福王のものは衣冠を葬った塚であり、伯泰の言は偽りではない」と言った。詔してその有力な民を辺境に戍らせ、琳らの俸を停めた。
- 親の喪に遭い、起復した。十三年(1448年)、四件を奏陳し、いずれも時弊に切実で、帝はことごとく従った。
浙江鎮守と刑部尚書
- 景帝が立つと、右副都御史として浙江を鎮守した。景泰元年(1450年)、兩浙の塩課の兼理を命ぜられた。閩の賊、吳金八らが青田など諸県を流れ歩いて掠奪し、輗が原貞とともに討ち平らげた。賊の首領である羅丕・廖寧八がまた閩から浙に至ると、輗らが防ぎ止めた功により秩一等を進められた。
- 翌年、南京の糧儲の監督に改まり、五年(1454年)、また左副都御史に改まって南京都察院の事務を掌り、職に堪えぬ御史数人を考課して罷めた。
- 天順元年(1457年)二月、召されて刑部尚書に任ぜられたが、数か月で病を理由に帰郷を乞うた。帝は召見して「昔、浙江の廉使で考満して帰るとき荷物がわずか一つの竹箱だったというのは、卿のことか」と問うた。輗は頓首して謝し、白金を賜って慰め送られた。
- 翌年、南京の糧儲督理に欠員が出たとき、帝が李賢に「大臣の中で誰かこの職に就いた者があるか」と問い、賢が輗を挙げてその廉を称えた。そこで左都御史として赴かせた。八年(1464年)夏、老齢のため辞職を乞い、返答を待たずまっすぐ帰り、家に着くと急いで湯浴みの支度をさせ、あくびをして卒した。
孤峭な性と評
- 輗は孤高で峻厳、人に接するのに賢愚を問わず拒んで交わらなかった。按察使のとき同僚の家で酒を飲み、帰ってから自分の腹を撫でて「この中に贓物がある」と言った。
- 南都にあったとき、都御史の張純が酒宴を設けて客を招いたが、輗はその奢りを憎んで行かず、料理を下げて贈られても受けなかった。年中行事で禮部に詣でて表を捧げて慶賀するときは、一室に籠って燭を撤して端坐し、事が終わるとそのまま帰り、僚友と一言も交わさなかった。僚友も輗が来ると聞けば避けて去り、ともにいることを楽しまなかった。
- 度量はかなり狭く、御史が人の隠しごとを暴くと、その能を褒めた。かつて御史に南京祭酒の吳節を弾劾させたところ、節もまた輗の私事を暴き、人々は輗を正しいとしなかった。
- しかし清らかな操守は天下に聞こえ、耿九疇と名を並べ、廉吏を語れば必ず「軒・耿」と言った。
陳復――杭州知府
- 陳復は福建懐安の人。輗と同年の進士。戸部主事から杭州知府となった。廉潔で私心がなく、訴訟が大いに減った。日々堂上に端坐し、属吏と律令を講読するだけであった。
- 喪に遭うと管内の民が留任を乞い、詔して起復させたが、まもなく卒した。輗が僚属に呼びかけて助けたのでようやく殮ができ、吏民が連れ立って香典を届けたが、その子はことごとく却け、金を借りて帰郷した。