明史卷一百五十八 列傳第四十六 魯穆

出自と漢王府弾劾

  • 魯穆は字を希文といい、天台の人。永樂四年(1406年)の進士。家居しては粗衣・粗食で、足跡は州府に入らなかった。選を受けに赴くとき有司が餞別を贈ると、穆は「私はこれから仕えるのだ。まだ人に利を与えぬうちに、先に郷里に迷惑をかけられようか」と言って受けなかった。
  • 御史を授かった。仁宗が監國のとき、しばしば封事を上った。漢王の属官・校尉に不法が多く、誰も敢えて言わなかったが、穆が上章して弾劾した。返答はなかったが、直言の名声が朝廷に響いた。

福建僉事としての裁き

  • 福建僉事に遷り、冤罪を正し有力者を挫いた。泉州の李某が廣西に転任したが、その姻戚の富民である林某が僕を遣わして道中で李を毒殺し、その妻を我がものとした。李の一族が官に訴えたが、担当の役人が林の賄賂を受け、訴えた者を罪に問って長く獄に繋いだ。穆が調べて実情を突き止め、ただちに林を罪に正した。
  • 漳の民、周允文は子がなく甥を跡取りとした。晩年に妾が子を生んだので、財産を分けて甥に与え、妾の子を託した。允文が死ぬと、甥は「この子は叔父の子ではない」と言って追い出し、その財産をすべて奪った。妾が訴え出た。穆は県の父老および周氏の一族を召し、ひそかに妾の子を子供たちの中に紛れ込ませたところ、みなその子を指して允文に似ていると言った。そこで財産を返させた。民は「魯鐵面」と呼んだ。
  • 当時、楊榮が国政を握り、その家人が法を犯した。穆はこれを処断して少しも容赦しなかったが、榮はかえって穆を賢として朝廷に推薦した。

僉都御史と最期

  • 英宗が即位すると右僉都御史に抜擢された。翌年、命を奉じて大名で蝗を捕らえ、帰って病により卒した。舟を給してその喪を帰らせるよう命ぜられた。
  • もともと穆が僉都御史として京に入ったとき、携えた物は衣類の袋一つに過ぎず、尚書の吳中が器物を贈ったが受けなかった。このとき、中が官給の衾を用意してようやく殯することができた。子の崇志は歴官して應天尹となり、廉直で父の風があった。