明史卷一百五十八 列傳第四十六 魏驥

出自と吏部

  • 魏驥は字を仲房といい、蕭山の人。永樂年間、進士の副榜で松江訓導を授かった。しばしば夜半に茶粥を携えて生徒をねぎらったので、生徒は発奮して大成する者が多かった。
  • 召されて『永樂大典』を修め、書が成って任地に戻った。師逵の推薦で太常博士に遷った。帝は「劉履節は御史を九年務めてようやく髙皇帝がこの官を授けられた。軽々しく人に与えるものではない」と言った。
  • 宣徳の初め、吏部考功員外郎に遷り、南京太常寺少卿を歴任した。正統三年(1438年)、召されて行在の吏部左侍郎を試み、翌年に正式に任ぜられた。しばしば畿内を巡視して残った蝗を除き、民の苦しみを尋ねるよう命ぜられた。
  • 八年(1443年)、禮部に改まった。まもなく老齢を理由に致仕を請うた。吏部尚書の王直が「驥はまだ衰えていない。老いを思うなら、繁を去って簡に就かせるべきだ」と言い、南京吏部に改めた。また老齢を理由に辞したが許されず、十四年(1449年)、尚書に進んだ。
  • 英宗が北狩すると、驥は諸司を率いて時務を条陳し、多くが施行された。景泰元年(1450年)、七十七歳で致仕した。

官にあっての気骨

  • 驥は官にあって大局に務めた。太常にあったとき山川壇で白兎二匹を得、畿内で瑞麦が生じたが、いずれも却けて献上しなかった。
  • 吏部にあったとき、進士で服喪を終えないまま考功を求めた者があり、同僚が許そうとしたが、驥は不可と主張した。法司が旱魃のために刑を恤んだとき、王綱という者が悪逆で死刑に当たったが、その若さを憐れんで猶予しようとする者があった。驥は「これは婦人の仁だ。天道が時に適わぬのはまさにこの故だ」と言った。獄が決すると雨が降った。
  • 正統年間、王振が寵愛を恃んで公卿を凌いだが、ひとり驥だけは重んじて「先生」と呼んだ。
  • 景泰の初め、老齢を請うため京師に至ったとき、大學士の陳循は驥の門生であったが、人払いして「公は冢宰の位にはあられるが、朝廷に立たれたことがない。しばらくお待ちを。事は私どもの手にあります」と言った。驥は色を正して「君は輔臣である。天下のために賢才を進めるべきで、一人の座主に私することはできぬ」と言い、退いてから人に「彼は朝廷の事を自分一己の事としている。どうして善く終われようか」と語った。そのまま致仕して去った。

郷里での晩年と褒賞

  • 驥は端厚で慎み深く、しかも剛直で、君子と小人を見分けることを好み、つねに「是非の心なきは人にあらず」と言った。家居しても国を憂え民を憂え、老いていよいよ篤かった。
  • 蕭山はもとより水害が多く、宋の県令楊時の湖の堤の遺跡があった。驥は螺山・石巖・畢公など諸々の塘堰の修築を唱え、江の潮を防ぎ湖の利を興したので、郷人がこれに頼った。
  • 日ごろ布衣・粗食で生業を営まず、兄の教諭騏に仕えて、老いてもいよいよ恭しかった。ときには笠をかぶって田の間を歩き、かつて錢塘の主簿に出会って隸卒に叱られると「蕭山の魏驥だ」と答え、主簿は慌てて謝し、慰めて去った。
  • 成化七年(1471年)、御史の梁昉が上言した。「臣は先に蕭山に任じ、致仕した尚書の臣魏驥が郷里に住み、里人と交わり、子孫に孝悌と農耕を教え、堤を増し湖を浚え、災害を防ぎ、行うところは動もすれば礼法に適い、理学を唱えて後進を励まし、林野にあっても治化を助けているのを見ました。驥の生涯の学問と行いは純篤、心術は正大で、世事に通じ国体に明るく、致仕して二十余年、九十八歳です。四方がその徳を仰ぐさまは卿雲のごとく、百年の化育がこの人瑞を生みました。臣が前史を読みますに、帰老に禄を賜って生涯を全うさせた例、三老五更を尊び養った例、安車蒲輪で召した例、几杖を賜った例があり、いずれも年齢と徳を尚んだものです。驥は年齢も徳も十分で、爵は上卿にあり、達尊と称すべきです。担当の役所に下し、前代の故事に酌んで施行されますよう」。
  • 帝は奏を見て感嘆し、行人を遣わして見舞い、羊と酒を賜り、有司に月ごとに米三石を給させた。使命が届かぬうちに驥は卒した。祭葬を礼のとおりに賜り、諡は文靖。
  • その子の完は驥の遺言により闕に詣でて葬の恩典を辞し、その金を飢民の賑恤に充てたいと乞うた。帝は感じ入って「驥は臨終の遺命でもなお民を労することを恐れた。純臣というべきだ」と言い、これを許した。蕭山の民は驥の徳を慕ってやまず、闕に詣でて徳恵祠に祀り楊時に配することを請い、可とする制が下った。