明史卷一百五十八 列傳第四十六 顧佐
字は禮卿、太康の人の顧佐(?–1446年)。建文二年の進士から御史・江西按察副使を経て應天尹となり、剛直で吏民に畏れ服され、包孝肅になぞらえられた。宣德年間には楊士竒・楊榮の推挙で右都御史に抜擢され、職に堪えぬ御史を大量に罷免して朝廷の綱紀を粛正した。讒訴を受けても宣宗の信任は厚く、誣告した者はかえって処断された。毎朝ひとり夾室に坐して諸司と交わらなかったため「顧独坐」と呼ばれ、法の執り方が厳しすぎる点だけが短所とされた。
出自と應天尹
- 顧佐は字を禮卿といい、太康の人。建文二年(1400年)の進士で、莊浪知縣を授かった。端午の日、守将が官僚を集めて弓を射比べさせ、佐は文人だからと難色を示したが、弓矢を取って一発で的に中てたので、守将は大いに服した。
- 永樂の初め、朝廷に入って御史となった。七年(1409年)、成祖が北京にあって吏部に御史の中から才ある者を選んで行在に赴かせたとき、佐もその中に入った。命を奉じて慶遠の蛮を招撫し、四川で材木の伐り出しを監督し、北征に従って関所や要害を巡視した。
- 江西按察副使に遷り、應天尹に召された。剛直で屈せず、吏民が畏れ服し、人は包孝肅になぞらえた。北京が造営されると順天尹に改まったが、権勢家の多くが都合悪く思い、貴州按察使として出された。洪熙元年(1425年)、通政使に召された。
右都御史としての御史粛正
- 宣徳三年(1428年)、都御史の劉觀が貪欲によって罷免された。大學士の楊士竒・楊榮が佐を推薦し、公平廉潔で威厳があり、歴任の官でいずれも風格を示し、京尹となっては政治が清らかで弊害が改まったと述べた。帝は喜んで右都御史に抜擢し、敕を賜って励まし、諸御史のうち職に堪えぬ者を調べて罷めさせ、御史に欠員が出れば人を挙げて吏部に送り補選させることとした。
- 佐は職務に就くとすぐ嚴暟・楊居正ら二十人を奏して罷め、遼東の各衛の吏に落とし、八人を降格、三人を罷免した。そして進士の鄧棨、國子生の程富、選を待つ知縣の孔文英、教官の方瑞ら四十余人を御史に堪えると挙げた。帝は三か月政務を経験させてから任じさせた。
- 居正ら六人が弁明したので帝は怒り、吏に落とされた者ともども残らず戍らせた。その後、暟が配所からひそかに京に戻り、他人の賄賂を脅し取ったので佐に奏され、しかも暟が自分を害そうと謀ったと言われた。詔して暟を市中で誅した。
- 帝が北巡した際は、尚書の張本らとともに留守を命ぜられ、帝が還ると再び敕を賜って諸御史を取り締まらせた。こうして貪欲・放縦の者を糾弾・罷免し、朝廷の綱紀が粛然とした。
隸金の讒訴と帝の信任
- 一年余りたって、悪辣な吏が「佐は隸卒から金を受け取ってひそかに帰らせている」と奏した。帝はひそかに楊士竒に示し、「そなたはかつて佐を廉潔だと推挙したではないか」と言った。
- 士竒は答えた。「中央の官は俸給が薄く、下僕や馬の薪や飼料は隸卒に頼っています。隸卒を帰すというのは、半ばは金を出させて役を免ずることで、隸卒は帰って耕作でき、官は費用を得られる。中央の官はみなそうしており、臣もそうです。先帝はこれをご存じだったので中央官の俸を増されたのです」。
- 帝は嘆いて「朝臣はこれほど貧しいのか」と言い、訴えた者に怒って「朕はまさに佐を用いようとしている。小人がよくも誣告した。必ず法司に下して処罰せよ」と言った。士竒は「細事で上の怒りを煩わすには及びません」と答えた。
- 帝はそこで吏の供述書を佐に渡し、「そなた自身で処置せよ」と言った。佐は頓首して謝し、その吏を召して「上は私にお前を処置せよと命じられた。行いを改めるなら私は許そう」と言った。帝はこれを聞いていよいよ喜び、佐は大局を心得ていると評した。
- ある者が、佐は冤罪の訴えを取り上げないと告げた。帝は「これは必ず重罪の囚が仕込んだのだ」と言い、法司に合同で審問させた。果たして千戸の臧清が無罪の三人を殺して死罪に当たり、人を使って佐を誣告させたのだった。帝は「清を誅さなければ佐の法が行われない」と言い、清を市中で磔にした。
致仕と人となり
- 八年(1433年)秋、佐が病んで帰郷を乞うたが許されず、南京右都御史の熊概にその職務を代理させた。一年余りで概が卒し、佐の病もすっかり癒えたので参内すると、帝は慰労し、朝賀を免じて元どおり政務を執らせた。
- 正統の初め、御史を考察して職に堪えぬ者十五人を降格・罷免した。邵宗は九年の考満を迎えて吏部がすでに適格と評していたのに、この中に含まれた。宗が奏して弁じ、尚書の郭璡も「宗を在任者と同じ考課に入れるべきではない」と言った。帝はそこで佐を責め、さらに御史の張鵬らが宗の些細な過失を弾劾した。帝は鵬が徒党を組んで欺くものとして、あわせて佐をも厳しく責めた。佐は上章して致仕して去り、敕を賜って褒め慰められ、鈔五十貫を賜り、戸部にその家の徭役を免除させた。十一年(1446年)九月に卒した。
- 佐は親孝行で兄弟に篤く、身の処し方は清白、性は厳格であった。毎朝、出仕して外の廬で小休し、藤の杖二本を戸外に立てておくと、通りかかる百官はみな回り道して避けた。内の当直の廬に入っては小さな夾室に独りいて、政を議するとき以外は諸司と一緒に坐らなかった。人は「顧独坐」と呼んだ。ただし法を執ることが厳しすぎ、論者はこれを短所とした。
邵玘――南京の風紀
- 当時、雩都の陳勉と嶧縣の賈諒が前後して副都御史となり、佐とともに台官の職に挙げられた。また蘭谿の邵玘は南京に仕えて佐と名を並べ、繁昌の嚴升の名も玘に次いだ。
- 玘は字を以先といい、永樂年間の進士で、御史を授かった。仁宗が監國のとき、その廉直を知って、法司に官が欠けるたびに玘に代行させ、重い獄はいつも玘に委ねた。中央・地方を歴任し、赴いた先では誰も法を犯そうとしなかった。
- 宣徳三年(1428年)、福建按察使から南京左副都御史に入った。職に堪えぬ御史十三人を奏して罷め、諸司の凡庸・軟弱・不肖な者八十余人を選び出して罷めたので、風紀が大いに振るった。二年在任し、病により在官のまま卒した。
- 玘は気位が高く同僚を侮ることを好み、獄の処理はかなり厳酷であったが、身を持することは廉潔で、家庭内の行いも修まり、母に仕えて孝行で聞こえた。
陳勉――信豐の招撫
- 陳勉は玘と同年の進士。仁宗の初め、楊士竒の推薦により廣東副使から左副都御史に抜擢された。信豐など諸県で盗賊が起こると、勉に慰撫を命じ、三千六百余人を招き寄せて乱が鎮まった。
- 景泰の初め、南京右副都御史に至って院の事務を掌り、致仕して卒した。勉は外は温和で内は剛毅、法律に精通し、吏が敢えて欺かなかった。
賈諒――弾劾と巡視
- 賈諒は字を子信という。永樂年間、鄉舉から太學に入り、皇太孫の説書に侍るよう選ばれ、刑科給事中に抜擢された。
- 宣徳四年(1429年)、軍籍整理の侍郎である金庠の収賄を弾劾して罷免させた。郎中の胡珏・蕭翔ら十一人、御史の方鼎ら三人が職に堪えぬとして弾劾されたが、帝は信じず、諒と張居傑にひそかに調べさせ、事実を得てことごとく貶官とした。
- 翌年、また陽武侯の薛祿の徒党結び・不敬を弾劾し、朝廷が粛然とした。まもなく右副都御史に任ぜられ、錦衣指揮の王裕、參議の黄翰、中官の張義らとともに四川・江西・湖廣を巡視し、有力者を取り調べて少しも容赦しなかった。
- 正統二年(1437年)、江北・河南の大水に際して、諒と工部侍郎の鄭辰に賑恤を命じた。芒碭山の盗賊が害をなしたので、諒が捕らえた者が甚だ多かった。四年(1439年)、帰路の徳州で卒した。諒は家庭内の行いが修まり、官に当たって風格があった。
嚴升――蘇松の清軍
- 嚴升は建文年間の進士。大理寺右少卿を歴任した。蘇州・松江の軍籍整理で法を執って屈せず、南京僉都御史に移され、玘と心を合わせて事務を執った。剛毅果断で自信があり、かつて「神羊賦」を著して志を示した。