明史卷一百五十七 列傳第四十五 夏時正

出自と獄制の改善

  • 夏時正は字を季爵といい、仁和の人。正統十年(1445年)の進士で、刑部主事を授かった。
  • 景泰六年(1455年)、郎中として福建の囚を審査し、死罪六十余人を出獄させた。その中に減死の詔によって現地の濱海の衛の軍に充てられる者がいたが、時正は彼らが海島に入って変事を起こすことを慮り、山東に転送してから奏聞した。そのうえで「およそ福建の減死の囚は、すべて北方に戍らせるべきです」と言った。法司はその言を是としながら、詔に違った罪を糺すよう請うたが、帝はとくに宥した。
  • 時正はまた、密貿易や強盗などの獄が合同審理を待って月日を引き、囚に獄死する者が多いとして、担当の役所に断決させるよう請うた。詔して従い、さらに天下に推し及ぼした。

大理寺と江西巡視、晩年

  • 天順の初め、大理寺丞に抜擢された。しばらくして親の養に便利なことから南京大理少卿に遷った。成化五年(1469年)、本寺の卿に遷った。
  • 翌年春、江西の災害の巡視を命ぜられ、名目のない税十余萬石を除き、諸司の冗員の役夫数萬を汰し、不適格な吏二百余人の罷免を奏し、南昌の濱江の堤および豐城など諸県の陂と堤を増築して、民がその利を得た。
  • かつて上奏の際に上奏を届けた者の姓名を記さず、吏科がその粗略・恣意を論じた。帝はその罪を宥し、弾劾の章を書き写して示した。そこで引退を乞うて帰り、民家を借りて住んだが、布政使の張瓚が西湖書院を築いて住まわせた。郷里に食むこと三十年、九十近くで卒した。
  • 時正は常々学を好み、閑居が長かったので著述が多く、古を稽え礼文を論ずる事にとりわけ詳しかった。

史論

  • 贊に言う。金純らは勤勉に公務に励み、官にあって職責にふさわしかった。加えて身を持すること清白で、操行に欠けるところがなく、まことに列卿の良臣である。鄭辰の廉潔、周瑄の獄の治め方は、いずれも仁者の心づかいがあった。君子というべきである。