明史卷一百五十七 列傳第四十五 潘榮

出自と言路の擁護

  • 潘榮は字を尊用といい、龍溪の人。正統十三年(1448年)の進士。景泰の初め、廣東で軍を犒って帰り、吏科給事中を授かった。起復を停めること、官を求めて奔走する風を抑えることなど数件を疏論し、帝が容れた。まもなく右給事中に進んだ。
  • 四年(1453年)九月に上言した。治を致す要は諫を納れることより切なるものはない。近ごろ意見を述べた者が聖意に忤らったため、禮部に「建言に接したら必ず審査を加え、報復にかこつける者があれば具奏して罪せよ」と諭された。この令が下ってから廷臣は気を落とし、物言うことを憚っている。国家の利害、生民の得失、大臣の奸悪を、何によって知ることができようか。まして今は巨寇が跋扈し辺塞は多事である。なぜかえって言路を塞ぐのか。明詔を下して台諫に知って言わぬことのないようにさせ、口を閉ざす者を罪し、あわせて閣部の大臣には詮索や差し戻しで政治の体を損なうなと敕されたい、と。疏は上ったが、報聞にとどまった。
  • 天順六年(1462年)、琉球に使いして帰り、都給事中に遷った。

災異に託した諌言

  • 成化六年(1470年)三月、同僚とともに上言した。近ごろ雨雪が時期を失い、災異が重なって現れ、陛下は詔を降して自ら責め、自ら祈祷され、大臣に思うところを尽くすよう詔された。上天が感応すべきところであるのに、いまなお風塵が昼を暗くし、災いの気が赤くまた黒い。天に応える道になお尽くさぬところがあるのではないか。そもそも人君が天を敬うのは斎戒と祈祷だけではない。政令が宜しきを失い、下民が居所を失い、珍玩を尊び、費用が節度を欠き、後宮に序列がなく、恩沢が均しくなく、爵が卑しい工人にみだりに施され、賞が身分に過ぎた者に妄りに及ぶ。これらはみな天を敬う道ではない。願わくは日々便殿に出御して大臣を召し、欠失を極言させて改められたい。さすれば災変を防ぐことができる、と。
  • 当時、万妃が寵愛を独占し、群小が縁故を頼って宝玩を献じ、官爵と恩賞が濫発されていたので、榮らが懇切に述べたのである。帝は用いることができなかった。

南京での財政と最期

  • この年、南京太常少卿に遷った。さらに七年を経て戸部右侍郎に抜擢され、まもなく右副都御史に改まって南京の糧儲を総督し、余剰数萬石を積んで凶荒に備えた。十七年(1481年)、戸部左侍郎に召され、まもなく部の事務を署した。
  • 英國公張懋ら四十三人が、先祖が大功によって爵を賜り子孫が継承しているのに、担当の役所がすぐに歳禄を減らすのは祖宗が功に報いた本意ではない、と自ら陳べた。榮らは「懋らは事なき時に妄りに増禄を請うている。功があったとき何をもって勧め賞するのか。まして連年の水旱で国用も充ちていない。請いは許すべきでない」と言い、この件は沙汰止みとなった。
  • 宦官の趙陽らが兩淮の塩十萬引を乞い、帝はすでに許していた。榮らは「近ごろ勢家が中塩することを禁じたばかりで、詔旨が下された直後に陽らが違犯した。その罪を正すべきだ」と言い、帝は陽らを厳しく責めた。
  • 南京戸部尚書の黄鎬が罷免され、榮が代わった。孝宗が位を嗣ぐと政を辞して帰り、月ごとの廩米と年ごとの役夫を制のとおり賜った。九年(1496年)に卒し、七十八歳。太子太保を贈られた。