大藤峽と河套
- 趙輔は字を良佐といい、鳯陽の人。職を襲って濟寧衛指揮使となった。景帝が位を嗣ぐと、尚書王直らが将才として推薦し、署都指揮僉事に抜擢され、左參將に充てられて懐來を守った。天順の初め、召し入れられて右府の事に臨んだ。
- 成化元年(1465年)、中府都督同知として征夷將軍に拝され、韓雍とともに両廣の蠻を討ち、大藤峽を陥として還り、武靖伯に封ぜられた。まもなく蠻が潯州に入り、言官がこぞって弾劾した。廣西巡按御史の端宏は「賊の害はまさに甚だしいのに、輔は賊を尽くしたと偽って爵を騙し取った。輔を罰しなければ戒めを示せない」と言った。輔は自ら戦いの経過を陳べてその罪を守将の歐信に転嫁し、帝はいずれも不問に付した。
- 三年(1467年)、總兵として迤東を征し、都御史李秉とともに撫順から深入りして連戦して功があり、侯に進んだ。
- 八年(1472年)、廷議が大挙して河套を掃討することとし、輔を將軍に拝して、陜西・延綏・寧夏三鎮の兵をみな節制させた。輔が榆林に至ったときには寇はすでに深入りして大いに掠奪しており、輔は制することができず、王越とともに疏して罷兵を請うた。言官がこぞってその罪を論じ、給事中郭鏜を検分に遣わした。鏜は還って「寇は六月に平凉・鞏昌・臨洮に入って人畜を殺し掠め、七月に至って慶陽の内境を縦横した。輔と越は榆林に至って進まなかった。兵を弛め寇を侮った罪を治めるべきだ」と言った。帝は容れなかった。
- 輔が還ってなお京營を督すると、弾劾する者はますます激しくなったが、詔してひとまず捨て置いた。輔が侯を辞して世襲の伯を乞うと、帝は世襲の伯を許したが侯はそのままとし、わずかに禄二百石を減らしただけであった。言官が力争したが聴かれなかった。輔はさらに上疏して功を並べ立て、禄を減らされては老いを養えないと言い、また「主上が内官の盧永に命じて南蠻を征させ、黄順・汪直に東北を征させたのはいずれも莫大な功で、史館に付すべきです」と言った。余子俊らが輔を法に照らすことを請うたが、ついに不問に付された。
- 十二年(1476年)、営務を解かれ、家居すること十年で卒した。容國公を贈られ、諡は㳟肅。
- 輔は若くして俊敏弁舌に富み才があり、詩文をよくして文士と多く交わり、また権勢のある寵臣と結ぶのを好んだので、たびたび弾劾された。しかし結局は無事であった。子の承慶が伯を嗣いで南京を協守したが、正徳の初め、諌官の劉□の疏を書き写したことに坐して劉瑾に憎まれ、禄を半減されて閒住となった。四代を経て元孫の光逺に至り、萬厯中に湖廣を鎮した。明が亡んで絶えた。