出自と練子寧との縁
- 錢習禮は名を幹といい、字をもって通った。吉水の人。永樂九年(1411年)の進士。庶吉士に選ばれ、まもなく檢討に任じられた。
- 錢習禮は練子寧と姻戚であったので、出仕してから郷里の人が姦党であると言い立て、常におそれおののいていた。楊榮が折を見て帝に述べたところ、帝は笑って「練子寧が生きていたら朕はなお用いたであろう。まして錢習禮においてをや」と言った。
- 仁宗が即位すると侍讀に移り、制誥を掌った。親を見舞うことを理由に帰った。
翰林院の座次と致仕
- 宣德元年(1426年)、両朝の實録を修めるにあたり、侍講の陳敬宗・陳循とともに召し還され、侍讀學士に進んだ。
- 英宗が経筵を開くと講官となった。『宣宗實録』が成ると學士に抜擢され、院の事を掌った。
- 正統七年(1442年)、もとの鴻臚寺を翰林院としたものが落成し、諸々の殿閣大學士がみな来た。錢習禮は楊士竒・楊溥の座を設けず、「ここは三公の府ではない」と言った。楊士竒らがこれを奏聞すると、帝は座を備えるよう命じ、以後これが慣例となった。
- 正統九年(1444年)、致仕を乞うたが許されなかった。翌年(1445年)、六部の侍郎に欠員が多く、帝は吏部尚書王直に大臣を集めて推挙させたが、特旨で錢習禮を禮部に抜擢した。錢習禮は力めて辞したが許されなかった。
- 王振が権を握り、高官の多くがその門に出入りしたが、錢習禮は身を屈することを恥じた。正統十二年(1447年)六月、ふたたび章を上げて骸骨を乞い、ようやく帰ることができた。
- 錢習禮は行いと道義に篤く、古を好み、礼を守って挙動に規矩があった。家に居ること十五年で没した。年八十九。文肅と諡された。