出自と李陵城の碑
- 王英は字を時彦といい、金谿の人。永樂二年(1404年)の進士。庶吉士に選ばれて文淵閣で読書した。
- 帝はその慎み深く機密を守ることを察し、王直とともに機密の文書を書かせ、『太祖實録』の編修に加え、翰林院修撰に任じ、侍讀に進めた。
- 永樂二十年(1422年)、北征に扈従した。軍が還って李陵城を過ぎたとき、帝は城中に石碑があると聞き、王英を召して見に行かせた。着いてみると碑のありかが分からなかったが、城の北門に石が一尺余り土から出ていた。掘り出してみると、元の時の李陵臺驛丞であった謝某の徳政碑であった。碑の裏には達嚕噶齊らの名が刻まれていた。つぶさに奏したところ、帝は「碑にモンゴルの名がある。後日それを自分の地としてしまい、争いの端を開くだろう」と言い、再び行って打ち砕き、河に沈めるよう命じた。
- 還って奏すると、帝はその詳しく慎重なことを喜び、「そなたは二十八人の中の読書人である。朕はそなたを用いよう」と言い、ついでに北伐のことを問うた。王英は「天子の威をもって親征されれば、彼は必ず遠く逃げましょう。深追いされませぬよう」と述べた。帝は笑って「秀才は朕が武を濫用していると言うのか」と言い、そして「軍中の動静に聞くところがあれば、すぐ入って奏せよ」と言い、また宦官に功を立てるのを妨げてはならぬと諭した。
- 官軍に過失があって糧を給さぬよう命じられたことがあり、皆集まって泣いた。王英の奏によってふたたび給された。
宣宗・英宗朝
- 仁宗が即位すると累進して右春坊大學士となり、親を見舞うことを乞うて帰った。宣宗が立つと朝に還った。
- このころ海内は安らかで、天子は文章に意を寄せ、しばしば諸學士と文芸を談じ、花を賞して詩を賦し、礼遇は手厚かった。かつて王英に「洪武年間の學士には宋濂・呉沈・朱善・劉三吾があり、永樂の初めには解縉・胡廣があった。そなたたち励め。前人にのみその美を独占させるな」と言った。
- 『太宗實録』『仁宗實録』を修めて完成すると少詹事に移り、麒麟帯を賜った。母の喪には特に葬祭を与えられ、宦官を遣わして護送して帰らせた。まもなく起復した。
- 正統元年(1436年)、経筵に侍り『宣宗實録』の総裁となるよう命じられ、禮部侍郎に進んだ。
- 正統八年(1443年)、部の事を執るよう命じられた。浙江の民に疫病が出たので南鎮を祭りに遣わされた。当時、長らく旱魃であったが、王英が着くと大雨が降り、民は「侍郎雨」と呼んだ。
- 年七十でふたたび退官を乞うたが許されなかった。
- 正統十二年(1447年)、王英の子で按察副使の裕が事に坐して獄に下されたので、王英は疏を上げて罪を待ったが、宥されて問われなかった。
- 翌年(1448年)、南京禮部尚書に進み、閑職に就かせた。二年いて没した。年七十五。祭葬を賜り、文安と諡された。
- 王英は端正重厚で、四朝に仕え、翰林にあること四十余年、しばしば會試の考官となり、朝廷の制作の多くはその手から出た。四方から銘志や碑記を求める者が絶えなかった。性は率直で信実、人の過ちを正すことを好んだので、三楊はみな喜ばず、それゆえ権を握って用いられることはなかった。
- 裕はのち累進して四川按察使に至った。