出自と工部尚書
- 呉中は字を思正といい、武城の人。
- 洪武の末、營州後屯衞經歴であった。成祖が大寧を取ったとき迎えて降り、兵糧の輸送と防禦の功により累進して右都御史に至った。
- 永樂五年(1407年)、工部尚書に改まり、北征に従った。喪に遭って帰ったが起復し、刑部に改まった。
- 永樂十九年(1421年)、夏原吉・方賔らとともに北征の兵糧不足を述べて帝の意に逆らい、獄に繫がれた。仁宗が即位して出され、その官に復し詹事を兼ね、太子少保を加えられた。
- 宣德元年(1426年)、樂安の親征に従った。宣德三年(1428年)、官の木石を宦官の楊慶に与えて宅を作らせたことに坐して獄に下され、宮保を落とされ一年の禄を奪われた。
- 正統六年(1441年)、殿の工事が完成して少師に進み、翌年(1442年)没した。年七十。荏平伯を追封され、榮襄と諡された。
- 呉中は勤勉機敏で計算に長けた。前後して工部にあること二十余年、北京の宮殿および長陵・獻陵・景陵の三陵はみな呉中の営造するところである。職務が山積しても計画は整然としていた。しかし工匠をいたわらず、また音曲や女色にふけったので、当時の論はこれを卑しんだ。