明史卷一百五十一 列傳第三十九 王鈍

出自と清廉

  • 王鈍は字を士魯といい、太康の人。元末に猗氏縣尹であった。
  • 洪武年間、召されて禮部主事に任じられ、福建參政を歴任し、清廉慎重をもって知られた。
  • 麓川に諭旨を伝えに遣わされたとき、その贈り物を退けた。ある人が「受けなければ遠人が疑いを抱くおそれがあります」と言ったので、王鈍はこれを受け、雲南に還るとこれを官の庫に納めた。
  • 洪武二十三年(1390年)、浙江左布政使に移った。浙にあること十年、名は張紞と並んだ。帝はかつて朝廷でこれを称えて諸々の補佐の者を励ました。
  • 建文の初め、戸部尚書に拝せられた。成祖が入ると城を越えて逃げたが、巡邏の兵に捕らえられた。詔してなお元の官のままとされた。

成祖朝と晩年、および子の瀹

  • まもなく張紞とともに罷免された。ほどなく工部尚書嚴震直らとともに山西・河南・陝西・山東を分かれて巡視するよう命じられ、また新昌伯唐雲とともに北平の屯種を経理し、制を承けて再び疏を上げて事を述べ、いずれも許され行われた。
  • 永樂二年(1404年)四月、敕を賜って布政使として致仕した。帰ってのち、鬱々として死んだ。
  • 子の瀹は永樂四年(1406年)の進士。仁宗の時、鄭王府左長史に移り、しばしば礼をもって王を諫めた。かつて荀卿の「成相篇」になぞらえて十二章を撰して献じたが、言葉が切実で王と合わなかった。召されて戸部郎中に改まった。英宗が即位すると戸部右侍郎に抜擢され、浙江を巡撫して恵み深い政治を行った。母の喪で去ったが起復し、入覲すると留められて部の事を代行し、まもなく老いを理由に帰ることを願い出て没した。