出自と孝行
- 師逵は字を九達といい、東阿の人。幼くして父を失い、母に仕えて至孝であった。
- 十三歳のとき母が病んで藤花莱を欲しがったので、師逵は城南二十余里に出てこれを求め得た。帰る途中、夜の二鼓に虎に出会った。師逵が驚いて天に呼びかけると、虎は捨てて去った。母の病はまもなく癒えた。
監察・按察と北京造営の採木
- 洪武年間、國子生として御史に従って巡按に出たが、御史に弾劾されて逮えられた。帝はその容貌を偉とし、釈して御史臺に謫して案牘を書かせた。久しくして御史に抜擢され、陝西按察使に移った。獄の囚人が千人も長く繫がれていたが、十日のうちにことごとく裁決し、皆その罪に当てはめた。母の喪で官を去り、墓の傍らに廬を結び、三年の間酒を飲まず肉を食べなかった。
- 成祖が即位すると召されて兵部侍郎となり、吏部に改まった。
- 永樂四年(1406年)、北京の宮殿を造営するにあたり大臣を分遣して木を採らせた。師逵は湖湘に赴き、十萬の衆を率いて山に入り道を開き、商賈や軍役を呼び集めて交易させ、事を成し遂げた。しかしかなり厳しく苛酷で、民が堪えず、多くが李法良に従って乱を起こした。左中允周幹がこれを弾劾したが、当時監國していた仁宗は、帝が特に遣わした者であるとして問わずに置いた。
- 永樂八年(1410年)、帝の北征に際し兵糧輸送の総督を命じられた。師逵は道程を量って中継の堡を置き、順送りに輸送することを請い、容れられた。
- 師逵は蹇義を助けて吏部にあること二十年、人は私事で頼み込むことができなかった。
- 仁宗が位を継ぐと、趙羾・古朴とともに南京に改官となったが、師逵は戸部尚書に進み、あわせて吏部を掌った。
- 宣德二年(1427年)正月、在職のまま没した。年六十二。
- 師逵は清廉で財産を殖やさず、俸禄も賜与もみな一族に分け与えたので、子が八人いたが自ら養うすべもないほどであった。成祖は北京にあったとき左右に「六部の扈従の臣で貪らぬ者は師逵だけだ」と語った。