出自と刑名・監察
- 李慶は字を德孚といい、順義の人。
- 洪武年間、國子生として右僉都御史を代行し、のち刑部員外郎に任じられ、紹興知府に移った。
- 永樂元年(1403年)、召されて刑部侍郎となった。性は剛毅果断で才幹があり、下僚を御することはたいそう厳しかった。帝はその才を認めてしばしば他の事を処理させたので、部に出る時間が取れなかったが、それでも属吏が罪人と通じてひそかに贈り物を受けていれば李慶はすぐに察知し、重い法で処断した。
- 永樂五年(1407年)、左副都御史に改まった。二度親の喪に遭ったがいずれも起復された。
勲貴の弾劾
- 当時、勲貴の武臣の多くが子弟や家人に商いをさせ塩の中納に加わらせて、官民の害となっていた。李慶は「旧制では四品以上の官員の家は民と利を争ってはならない。いま都督蔡福らはすでに罰せられた。公侯にも犯す者があれば同じく取り調べていただきたい」と述べた。帝は制のとおり厳禁するよう命じた。
- 忻成伯趙彛が運夫をほしいままに殺し軍糧を盗み売りしたこと、都督譚青・朱崇の貪欲放縦を弾劾し、いずれも吏に下された。さらに都督費瓛の欺罔、梁銘の貪暴、德州鎮守の都督曹得の賄賂を弾劾し、いずれも責めを受けた。中外はその風采を畏れた。
- 永樂十八年(1420年)、工部尚書に進み、まもなく兵部の事も兼ね領した。
仁宗朝と鎮夷關の敗死
- 仁宗が立つと兵部に改まり、太子少保を加えられた。
- 弋謙が事を論じて帝の意に逆らったとき、吕震らが口をそろえて謗ったが、李慶と夏原吉だけは何も言わなかった。帝はまもなく悟り、敕を降して自ら責め、あわせて吕震らを責めた。吕震らはたいそう恥じ入った。
- 山陵(陵墓造営)の事では急いで手配することが多く、宦官が求めても頑として与えなかったので、人は多くこれを憚り、「生李」と呼んだ。
- 命を受けて皇太子に侍して孝陵に詣でたとき、道中で将士を取り締まり、秋毫も民を騒がせなかった。太子が狩りをしようとすると諫めてやめさせた。太子が北京に還ると、李慶は南京兵部に留められた。
- 宣德二年(1427年)、安遠侯柳升が黎利を討つにあたり、李慶に軍務の参贊を命じ、部曹の賢能な者を選んで随行させることを許した。軍が鎮夷關に至ったとき、柳升は賊を軽んじて備えをしなかった。郎中史安・主事陳鏞がこれを李慶に告げた。李慶はすでに重病であったが、無理に起きて柳升に告げた。柳升は聴かずまっすぐ進み、伏兵にかかって敗死した。李慶の病はついに篤くなり、翌日また死んだ。一軍はことごとく壊滅した。