出自と成祖の顧問
- 黄淮は字を宗豫といい、永嘉の人。父の性は、方國珍が温州に拠ったとき身を隠して偽命を避けた。
- 黄淮は洪武末の進士となり、中書舍人を授かった。成祖が即位して召し対えると意に適い、解縉とともにつねに御榻の左に立って顧問に備えるよう命ぜられ、夜半に及ぶこともあり、帝が寝所に就く際にも榻の前に坐を賜わって語り、機密の重務にことごとく与った。
- のち解縉ら六人とともに文淵閣に直し、翰林編修に改まり、侍讀に進んだ。
- 太子を立てる議では、黄淮は嫡子を長幼の順に立てるよう請うた。太子が立つと左庶子兼侍讀に遷った。
十年の投獄
- 永樂五年(1407年)、解縉が黜けられると、黄淮は右春坊大學士に進んだ。翌年、胡廣・金幼孜・楊榮・楊士奇とともに皇太孫の輔導に当たった。
- 七年(1409年)、帝が北巡すると、黄淮および蹇義・金忠・楊士竒に皇太子を輔けて監国させた。十一年(1413年)に再び北巡したときもなお留守した。
- 翌年、帝が衛拉特を征して還ったとき、太子の遣わした迎駕の使者が遅れ、帝は重ねて入城した。髙煦が讒言し、東宮の官属をことごとく徴して詔獄に下した。黄淮および楊溥・金問はみな連坐して十年間拘禁された。
仁宗・宣宗の朝と致仕
- 仁宗が即位すると官を復し、まもなく通政使兼武英殿大學士に抜擢され、楊榮・金幼孜・楊士奇とともに内制を掌った。母の喪に遭い喪を全うすることを願ったが許されなかった。翌年、少保・戸部尚書に進み、大學士は従来どおり。
- 仁宗が崩じたとき太子は南京におり、漢王は久しく異志を蓄えていたので中外は疑い懼れ、黄淮は憂え危ぶんで血を吐いた。
- 宣徳元年(1426年)、帝が樂安に親征すると黄淮に留守を命じた。翌年、病により退官を願い出て許された。
- 父の性は年九十で、黄淮は手厚く奉養して大いに喜ばせた。性が卒すると葬祭を賜わった。黄淮が闕に詣でて謝したとき、ちょうど元宵の灯節に当たり、西苑の遊覧を賜わり、詔して肩輿に乗って萬歳山に登ることを許され、会試の主考を命ぜられた。辞して帰るときには太液池で餞し、帝は長歌を作って送り、「朕の誕生日にはまた来るように」と言った。翌年、入って賀した。英宗が立つと再び入朝した。
- 正統十四年(1449年)六月に卒す。年八十三。諡は文簡。
献替の事績と欠点
- 黄淮は明察果断で治体に通じていた。永樂中、長沙の妖人李法良が叛いたとき、仁宗はちょうど監国しており、豐城侯李彬に討たせようとした。漢王は太子に功があるのを忌み、偽って「李彬は用いるべきでない」と言った。黄淮は「李彬は老将で必ず賊を滅ぼせます。急ぎ遣わされますよう」と言い、李彬はついに法良を擒にした。
- また当時、逆党を告発する者があったが、黄淮は帝に「洪武末年にすでに禁ずる敕がありました。改めて取り上げるべきではありません」と言った。
- 吏部が、靖難の兵が起きたとき南人で北地に官しながらすぐに帰順しなかった者を追及して編戍に処すべきだと論じたとき、黄淮は「そうすれば人に度量の狭さを示すことになりましょう」と言った。帝はいずれも従った。
- 阿嚕白が帰順を願い出て、吐蕃の諸部を役属させたいと請い、朝廷に金に誓詞を刻ませ、その金を削って酒に混ぜ諸酋長に飲ませて盟としたいと求めた。衆議は許そうとしたが、黄淮は「彼らの勢力が分かれていれば制しやすく、一つにまとまれば図りがたくなります」と言った。帝は左右を顧みて「黄淮の論事は高い岡に立つがごとく、遠くまで見えぬところが無い」と言った。
- 西域の僧、大寳法王が来朝したとき、帝は玉印を刻んで賜わろうとし、原石を黄淮に示した。黄淮は「朝廷が諸蕃に制敕を賜わるときは敕命・廣運の二宝を用います。今この玉はそれより大きく、遠人に示して朝廷を尊ばせる所以ではありません」と言い、帝は嘉して容れた。献替の類はおおむねこのようであった。
- ただし度量はかなり狭く、同列に小さな過ちがあるとすぐ上聞した。解縉の左遷には黄淮の力があったと言う者もいる。宣宗に疎んぜられたのも、楊榮が「黄淮の労咳は人に染る」と言ったためだと言われる。