出自と封爵
- 王友は荆州の人。父の職を襲いで燕山䕶衞百戸となり、挙兵に従って京師を平定した。論功では侯に当たるところであったが、驕り放縦であるとして都指揮僉事を授けられ、邱福らの協議に及んで清逺伯に封ぜられた。
倭寇討伐と交阯征討
- 永樂二年(1404年)、總兵官に充てられ舟師を率いて倭を捕らえた。倭がたびたび海上を掠めたのに王友は功が無く、帝から厳しく責められた。のち大いに倭を破り、帝は喜んで敕を降して褒め労い、まもなく召還した。
- 四年(1406年)、交阯征討に従い、指揮柳琮と兵を合わせて壽江の栅を破り、枚普頼の諸山を囲んで斬首三万七千余級。六年(1408年)七月、侯に進み禄五百石を加えられ、世券を賜わった。
- 翌年、再び交阯を征して副總兵となった。
失敗と失爵
- 八年(1410年)、還って北征に従い中軍を監督した。別に劉才とともに飲馬河のほとりに築城した。
- 知院の實納噶が降ろうとしていたので、帝は王友に士卒を率いて先行させ、敵に遭ったら機を見て討ち滅ぼせと諭させた。ところが王友らは敵と一行程の距離まで来ながら、道を迂回して応昌へ避けてしまった。軍中は食糧を欠き死者が多かった。帝は激怒し、たびたび旨を降して厳しく責め、その軍を奪って張輔に属させ、還ってから群臣に罪を議させたが、のち赦した。
- 十二年(1414年)、妾が王友夫婦の誹謗を告発し、それが事実と証されて爵を奪われ、まもなく卒した。仁宗が即位すると、その子の順を指揮僉事に任じた。
史論
- 贊に曰く。張武・陳珪ら諸人は、藩封に従って起った者もあれば率先して帰順した者もあるが、いずれも偏将・裨将・列校の身であって、勇略や智計があって大将の器と称されるほどの者ではなかった。ところがひとたび風雲の会に遭い、符を割いて功を策せられ、佐命の臣と称され、太祖の開国の諸臣と肩を並べるに至った。功に報いる義もまた厚いというべきではないか。