明史卷一百四十六 列傳第三十四 徐忠

出自と靖難の戦功

  • 徐忠は合肥の人。父の爵を襲いで河南衞副千戶となり、たびたび大軍の北征に従って多くの捕虜・鹵獲を挙げ、濟陽衞指揮僉事に進んだ。洪武の末に䦕平を鎮守した。
  • 燕の兵が居庸・懐來を破ると、徐忠は䦕平を挙げて降り、灤河を巡撫するのに従い、陳旭とともにその城を抜いた。
  • 李景隆が北平を攻めたとき、燕の軍は大寧から還って救援し、㑹州に至って五軍を置いた。張玉が中軍、朱能が左軍、李彬が右軍、房寛が後軍を将い、徐忠は驍勇で名高かったので前軍を将わされた。かくて陳暉を白河に敗り、景隆を鄭村壩に破った。
  • 白溝河の戦いでは、徐忠は単騎で敵陣に突入し、指一本に流矢が中ったが、鏃を抜く暇もなく急いで刀で断ち切り、弓を満に引き絞って疾駆し決死の戦いをした。燕王は高みからこれを見て左右に「まことの壮士だ」と言った。
  • 進んで濟南を攻め、滄州を落とし、東昌・夾河で大戦し、彰徳を攻め、西水塞を破り、東阿・東平・汶上を落とし、靈壁で大戦し、そのまま長江を渡って京師に入った。
  • 指揮同知から都督僉事に累遷し、永康侯に封ぜられ、禄は千百石、世券を賜わった。

人となりと死

  • 徐忠は戦うごとに敵の鋒を挫き跳び込んで諸将の先を行ったが、軍の統御は厳しく、通った所で住民を騒がすことがなかった。降伏帰順した者をよく撫し、その死力を得た。
  • 継母に仕えて孝で知られ、夜に帰れば必ず家廟に一礼してから入った。倹約で恭謹、過ちを犯したことがなかった。
  • 成祖が北巡するとき、老成であるとして留めて太子を輔け監国させた。
  • 永樂十一年(1413年)八月に卒し、蔡國公を贈られ、諡は忠烈。

子孫の末路

  • 爵は裔孫の錫登まで伝わり、崇禎の末に賊に殺された。
  • 従兄の錫䕃はかつて侯を襲いだが、卒して子が無かった。その妻の朱氏は成國公純臣の娘で、夫が没すると楼上に住んで十余年、地を踏まなかった。城が陥ちると廟主を捧げ持って焼身して死んだ。