出自と靖難の戦功
- 鄭亨は合肥の人。父の用は洪武のとき功を積んで大興左衞副千戶となり、老を請うたので鄭亨が職を嗣いだ。
- 洪武二十五年(1392年)、募に応じて檄を持ち韃靼を諭しに行き、鄂諾河まで至って還り、密雲衞指揮僉事に遷った。
- 燕の軍が起こると部下を率いて降り、真定の戦いで真っ先に城壁に登り、指揮使に進んだ。
- 大寧を襲うとき劉家口に至り、諸将が関を攻めようとしたが、成祖は関を守る兵が大寧へ走って報せ備えられることを恐れ、鄭亨に精騎数百を率いさせ、旗を巻いて山に登り、ひそかに関の背後に出て帰路を断ち、急襲して関を守る者をことごとく縛らせた。こうして不意に大寧へ至った。
- 北平都指揮僉事に進み、夜に衆を率いて鄭村壩の兵を破り、西のかた紫荆關を破って廣昌を掠め、蔚州を取って大同にまで達した。
- 還って白溝河で戦い、敗走する敵を済南まで追い、都指揮同知に進んだ。滄州を攻めて北門に軍し、糧道を扼した。東昌の戦いに敗れると散った兵を収めて深州に還軍した。
- 翌年、夾河・藁城で戦い、彰徳まで掠め、河上で兵を耀かし、還って完縣に屯した。
- さらに翌年、東平・汶上を破るのに従い、小河に軍したが、戦いに敗れて王真が死んだ。諸将は皆北へ還ろうとしたが、鄭亨と朱能だけがこれを承知せず、ついに京師へ入った。
- 中府左都督を歴任し、武安侯に封ぜられ、禄は千五百石、世券を賜わった。北京の留守に当たった。当時、父の用がまだ存命で、鄭亨と同格の封爵を受けた。
宣府の辺備
- 永樂元年(1403年)、總兵官に充てられ、武成侯王總・安平侯李逺を率いて宣府に備えた。
- 辺に至ると、宣府・萬全・懷來の地形の便を測り、数堡が相隣り合うごとに、その中から数堡分の兵馬を収容できる一堡を選んで、城を高くし濠を深くし、井を浚えて水を蓄え、瞭望を厳しくした。寇が来れば夜は火を挙げ昼は砲を鳴らし、力を合わせて堅守する。その規画は周到で、後の者も改めることができなかった。
- 三年(1405年)二月に召還されたが、すぐまた鎮に遣わされた。
五度の塞外従軍
- 七年(1409年)秋、開平で辺に備えた。翌年、帝が北征すると鄭亨に輸送の監督を命じ、塞外に出て右哨を率い、布尼雅錫里を追撃して破った。大軍が阿魯台と遭遇すると、鄭亨が衆を率いてまず大いにこれを破り、論功では諸将の首位であった。その冬、なお宣府を鎮守した。
- 十二年(1414年)、再び北征に従い中軍を領し、和實衮で戦って敵を追ううちに流矢に中って退いたが、また大軍と合してこれを破った。
- 二十年(1422年)、再び塞外に出て左哨を率い、兵一万を率いて龍門の道を修めた。軍を過ぎて烏梁海を竒拉爾河で破り、輜重を率いて還るとき、追尾してきた寇を撃破した。なお䦕平を守った。
- 成祖は五度塞外に出たが、鄭亨はそのすべてに従軍した。
大同鎮守と死
- 仁宗が即位すると大同を鎮守した。洪熙元年(1425年)二月、各辺の總兵官に制諭と將軍印が頒たれ、鄭亨は征西前將軍の印を佩びた。
- 鎮にあって田を墾き穀を積み、辺備は堅固となり、以後、大同は寇の患いが少なくなった。
- 宣徳元年(1426年)、召されて行後府の事を掌り、のちなお大同を鎮守した。宣府へ糧を転送し、迤北の部長十九人を招降して、朝廷に手厚く撫することを請い、帰順する者が相次いだ。
- 九年(1434年)二月、鎮において卒した。
- 鄭亨は厳粛で重厚、よく士卒を撫し、収奪を恥とした。大同にあったとき、鎮守の中官が軍政に容喙したのを道理をもって抑えたので、その者は不快に思ったが、鄭亨が卒したときには深く悼み惜しんだ。
- 漳國公を贈られ、諡は忠毅。妾の張氏は首をくくって殉じ、淑人を贈られた。子の能が嗣ぎ、爵は明の亡ぶまで伝わった。