出自と靖難
- 陳珪は泰州の人。洪武の初め、大將軍徐達に従って中原を平定し、龍虎衞百戶を授かり、燕山中䕶衞に移った。
- 成祖の塞外出撃に従って前鋒となり、副千戸に進んだ。挙兵に従って功を積み、指揮同知に至り、還って世子を補佐して留守に当たった。都督僉事に累進し、泰寧侯に封ぜられ、禄は千二百石。世子を輔けて留守に当たるのは従来どおりであった。
北京の造営と晩年
- 永樂四年(1406年)、北京の宮殿造営を監督し、計画・区画に筋道が通っており、大いに賞重された。
- 八年(1410年)、帝の北征に際し、駙馬都尉袁容とともに皇長孫を輔けて北京に留守した。
- 十五年(1417年)、繕工の印を鋳て陳珪に授け、あわせて属官を置き、行在後府の掌管も兼ねさせた。
- 十七年(1419年)四月に卒す。年八十五。靖國公を贈られ、諡は忠襄。
子孫の相承
- 子の愉が嗣いだが、永樂二十年(1422年)の北征に従って軍律を失し、下獄して死んだ。
- 兄の子の鐘が嗣ぎ、再伝して瀛に至り、土木で戦没した。寧國公を贈られ、諡は忠愍。
- 弟の涇が嗣ぎ、天順六年(1462年)に廣西を鎮守した。翌年(1463年)九月に猺賊が乱を起こし、涇は数千人を率いて梧州に駐屯した。その冬、大籐の賊数百人が夜に城へ入って殺掠すること甚だしかったが、涇は兵を擁したまま救援せず、召還されて下獄し斬罪と論ぜられたが、まもなく赦されて卒した。
- 子の桓が嗣ぎ、𢎞治の初めに寧夏を鎮守した。中貴人が縁故の者に功をかすめさせて賞を得ようとするのを桓は拒み絶ったため讒言され、召還されて卒した。
- 数代を伝えて延祚に至り、明が亡んで爵は除かれた。