明史卷一百四十五 列傳第三十三 陳亨
陳亨は夀州の人。元の揚州萬戸から太祖に濠で従い、鐵甲長・千戸を経て燕山左衛指揮僉事、北平都指揮使に進んだ。惠帝の即位で都督僉事となり、燕師が起こると劉真・卜萬とともに大寧を守ったが、成祖の計で卜萬が退けられ大寧が陥ちると、徐理・陳文らと謀って燕に降った。成祖が大寧の諸軍と朶顔ら三衛の騎卒を得たことが天下を取る端緒となり、その道を開いたのが亨である。降後は白溝河や華山で戦って重傷を負い、北平へ送り返されて没した。涇國公を追封され、諡は襄敏。少子の懋は寧陽侯として永樂から天順まで功名を保った。
年表(15件)
- 洪武二年1369年大同を守り功を積んで燕山左衛指揮僉事となる
- 永樂元年1403年陳懋が寧陽伯に封じられ禄千石を受ける
- 六年1408年陳懋が征西將軍の印を佩びて寧夏を鎮し降卒を撫する
- 八年1410年陳懋が北征に従って左掖を督する
- 十一年1413年陳懋が寧夏の辺を巡り宣府駐屯を命じられる
- 二十年1422年陳懋が北征で奇拉爾河に敵を破り娘が麗妃に冊立される
- 宣徳元年1426年陳懋が樂安討伐に従い還ってなお寧夏を鎮する
- 三年1428年陳懋が靈州城の移転を奏し黒白の兎を献じて宣宗に賞される
- 十三年1448年陳懋が征南將軍として福建の賊鄧茂七の討伐に向かう
- 天順七年1463年陳懋が年八十四で没し濬國公を贈られる
- 永樂六年1408年徐理が没する
- 永樂七年1409年房寛が没する
- 永樂八年1410年劉才が北征に従い右掖を督したが軍律を失って罪を議される
- 二十一年1423年劉才が隆平侯張信とともに永平・山海の辺務を処理する
- 宣徳五年1430年劉才が没する
洪武年間の官歴
- 陳亨は夀州の人。元の揚州萬戸。太祖に濠で従って鐵甲長となり、千戸に抜擢された。
- 大將軍の徐達に従って北征し、東昌を守った。敵の数萬が急に至ったが、亨は固守して奇兵を出し、誘い出して破った。また従って未だ下らない諸城を巡った。
- 洪武二年(1369年)、大同を守り、功を積んで燕山左衛指揮僉事となり、しばしば従って塞を出て、北平都指揮使に遷った。惠帝が即位すると都督僉事に抜擢された。
大寧の帰順
- 燕師が起こると、亨は劉真・卜萬とともに大寧を守り、兵を移して松亭關を出て沙河に駐屯し、遵化を攻めようと謀ったが、燕兵が至ると退いて關を保った。
- 当時、李景隆が五十萬の兵で北平を攻めようとしており、北平の勢は弱かった。一方、大寧行都司の管する興州・營州の二十餘衛はいずれも西北の精鋭であり、朶顔・泰寧・福餘の三衛は元の降將が統べる蕃騎・彍卒で、とりわけ驍勇であった。
- 卜萬が景隆の軍と合流しようとしたので、成祖は恐れ、計をもって亨を欺いて萬を投獄させ、劉家口の間道からすばやく大寧を攻めた。
- 亨と劉真は松亭から引き返して救おうとしたが、途中で大寧が破られたと聞き、指揮の徐理・陳文らと燕への降伏を謀った。夜の二鼓に劉真の営を襲い、真は単騎で廣寧へ走り、亨らは軍勢を率いて降った。
- 成祖は諸軍と三衛の騎卒をすべて引き抜き、寧王を擁して帰った。以後、鋒に当たり陣を陥れたのは多くが三衛の兵である。成祖が天下を取ったのは大寧を落としたことに始まる。
白溝河以後と最期
- 亨と理は降ってのち従って南軍を破った。白溝河の戦いで亨は傷を負って死にかけた。のち濟州を攻め、平安と華山で戦って大敗し、傷が重く、車で北平へ送り返された。都督同知に進んだ。
- 成祖は軍を還すと自ら亨の邸を訪ねて労い問うた。その年十月に没した。成祖は自ら文を作って祭った。即位に及んで涇國公を追封し、諡は襄敏。
- 長子の恭が嗣いで都督同知となった。
陳懋――寧陽伯から侯へ
- 少子の懋は、はじめ舍人として従軍して功を立て、指揮僉事となった。のち亨の兵を率いて功が多く、右都督まで累進した。
- 永樂元年(1403年)、寧陽伯に封じられ、禄千石。六年(1408年)三月、征西將軍の印を佩びて寧夏を鎮し、降卒をよく撫した。
- 翌年秋、もと元の丞相の藏布および平章・司徒・國公・知院ら十餘人がみな衆を率いて相次いで降った。まもなく平章の多蘭らが叛いて去ったが、懋は追って黒山で捕らえ、その部下の人口と家畜をことごとく収めた。侯に進み、禄二百石を増された。
- 八年(1410年)、北征に従って左掖を督した。十一年(1413年)、寧夏の辺を巡り、まもなく山西・陝西の二都司および鞏昌・平涼の諸衛の兵を率いて宣府に駐屯するよう命じられた。
- 翌年、北征に従って左哨を率い、和實衮で戦い、成山侯の王通とともに先登し、都督の朱崇らがこれに乗じて大勝した。翌年、ふたたび寧夏を鎮した。
- 二十年(1422年)、北征に従って御前の精騎を率い、奇拉爾河で敵を破り、別に五千騎を率いて河に沿って東北へ進み、残る賊を追って山沢の中で殲滅した。軍が還るとき、武安侯の鄭亨が輜重を率いて先に行き、懋は隘路に伏せて待った。敵が追って来ると伏兵が起こって撃ちかかり、敵は半ば以上が死んだ。京に還って龍衣と玉帯を賜り、その娘は麗妃に冊立された。
- 翌年、陝西・寧夏・甘肅の三鎮の兵を率いて阿嚕台征討に従い、前鋒となった。その翌年もまた前鋒を率いて北征に従った。
- 成祖が榆木川で崩じたとき、六軍は外にあり京師の守備は手薄だった。仁宗は懋と陽武侯の薛祿を召して精騎三千を率いて馳せ帰らせ、京師を衛らせた。前府を掌ることを命じられ、太保を加えられ、世襲の侯となった。
陳懋――寧夏・甘肅での失態
- 宣徳元年(1426年)、樂安討伐に従い、還ってなお寧夏を鎮した。三年(1428年)、靈州城を移すことを奏し、黒白二匹の兎を得て献じた。宣宗は喜び、自ら馬を描いて賜った。
- 懋は鎮にあること長く、威名は漠北に轟いたが、寵を恃んでほしいままにふるまい、巨万の財を私した。しばしば弾劾されたが帝は曲げて赦し、担当官庁にその賍を徴収させた。懋が使い果たしたと自ら申し述べると、詔で免除された。
- 英宗が即位すると張輔とともに朝政に参議するよう命じられ、出て平羌將軍として甘肅を鎮した。
- その冬、敵が鎮番を掠め、懋は兵を遣わして救援し、敵は去った。斬獲があったとして上申したところ、參贊侍郎の柴車が、懋は軍律を失って敵を招き、しかも敵の残した老弱を都指揮の馬亮らの功として偽り昇進と恩賞を受けたと弾劾し、斬罪と論じられた。詔で死を免じられ、禄を奪われ、久しくして禄を戻され、朝請に列した。
陳懋――福建の鄧茂七討伐と最期
- 十三年(1448年)、福建の賊の鄧茂七が反し、都御史の張楷が討ったが功がなかった。そこで詔により懋が征南將軍の印を佩び、總兵官として京營および江浙の兵を率いて討伐に向かった。
- 浙江に至ったとき、兵を分けて海口を扼そうと言う者があったが、懋は「それは賊を我らに対して死力を尽くさせることになる」と言った。
- 翌年、建寧に至ると茂七はすでに死んでおり、残る賊は尤溪・沙縣に集まっていた。諸將は皆殺しにしようとしたが、懋は「それは賊の心を固めさせるだけだ」と言い、招撫の令を下したので、賊の党は多く降った。道を分けて追捕し、ことごとく平定した。
- まもなく沙縣の賊がふたたび盛んになり、長く定まらないうちに、英宗が北狩し景帝が立ったので、詔により軍を還した。言官が弾劾したが、賊が平定したことで問われず、なお太保を加えられて中府を掌り、宗人府の事を兼領した。
- 英宗が復位すると禄二百石を増された。天順七年(1463年)に没した。年八十四。濬國公を贈られ、諡は武靖。
- 懋は髭を長く伸ばし容貌は堂々とし、声は洪鐘のようで、胸中は磊落で士大夫を敬い礼遇した。永樂の功臣で天順の時まで存命の者はなく、ただ懋だけが久しく禄位を享け、しばしば廃されしばしば起用され、ついに功名をもって終わった。
陳晟以下の子孫
- 長子の晟には罪があり、弟の潤が嗣いだ。潤が没して弟の瑛が嗣ぎ、禄は半分に減らされた。侯を嗣いで十六年、晟の子の輔が成人したので輔に嗣がせ、瑛は解かれて勲衛となった。
- 輔はのち事に坐して侯を失い、没して子がなかったので、あらためて瑛の孫の繼祖を侯に封じ、爵は明の亡ぶまで伝わった。
徐理
- 徐理は西平の人。洪武の時に永清中䕶衛指揮僉事となり、營州衛に移された。降ってからは右軍副將となり、戦うたびに先登して功があった。
- 成祖が滄州を襲おうとしたとき、理と陳旭に命じてひそかに直沽で浮橋を作らせ、軍を渡らせた。都指揮僉事まで累進し、武康伯に封じられ、還って北平を守った。理は部下への統御が寛やかで士卒の心を得た。永樂六年(1408年)に没した。
- 二代を伝えて孫の勇に至り、子がなく封は絶えた。
陳文
- 陳文は降ってのち前軍左副將となり、小河で戦って陣中で死んだ。
房寛
- 房寛は陳州の人。洪武年間、濟寧左衛指揮として徐達に従い北平で兵を練り、そのまま北平都指揮同知となり、大寧の守りに移った。
- 寛は辺境に長くいて、山川の要害から異域の実情まで知り尽くしていたが、士卒を撫することができなかった。燕兵が突然至ると、城中の者が寛を縛って降った。成祖はこれを釈してその衆を率いさせた。
- 白溝河の戦いで右軍を率いたが利あらず、廣昌・彰徳の攻略に従い、都督僉事に進んだ。旧臣ということでその過失は不問とされ、思恩侯に封じられ、禄八百石、指揮使を世襲とした。永樂七年(1409年)に没した。
劉才
- 劉才は字を子才、霍邱の人。元末に元帥となり、明が興ると帰順し、營州中衛の衛指揮僉事を歴任した。
- 燕師が大寧を襲うと才は降り、従って戦って功があり、廣恩伯に封じられ、禄九百石、指揮同知を世襲とした。
- 永樂八年(1410年)、北征に従って右掖を督したが軍律を失って罪を議されたが、のち赦された。二十一年(1423年)、隆平侯の張信とともに永平・山海の辺務を処理した。翌年ふたたび北征に従い、懐來まで来て病のため還った。
- 才は誠実で飾り気がなく、いい加減に人に迎合せず、また軽々しく人を謗ることもなかったので、仁宗にたいそう重んじられた。宣徳五年(1430年)に没した。
史論
- 贊に曰く。惠帝は太祖の遺した威光と余勢を承け、国勢はようやく張り、仁の評判が広く行き渡り、人心は喜んで従っていた。成祖は一隅から奮い起こり、不義の汚名を冒して天下を争ったのであって、万全の策があったわけではない。
- そこへ道衍がまず密謀を献じて機を発し策を決し、張玉・朱能のたぐいが軍中で力を尽くし、転戦して前に敵なく、身を捨てて顧みなかった。こうして精鋭を収め強敵を砕き、四年で帝業を成した。
- 思うに天が与えたものであり、多くの策と多くの力が時に応じてともに助けたのであろう。この人々が功臣の筆頭となったのは、厚い幸運というほかない。