譚淵
- 譚淵は清流の人。父の職を継いで燕山右䕶衛副千戸となった。
- 燕兵が起こると九門奪取に従い、雄縣を破った。潘忠・楊松が鄚州から救援に来ると、淵は壮士千餘人を率いて月漾橋の水中に伏せ、一人一人が茭草の束を頭にかぶって鼻先だけ出して息をした。南軍が通り過ぎるとすぐ出て橋を押さえた。忠らは戦に敗れて橋へ走ったが渡れず、捕らえられた。都指揮同知まで累進した。
- 淵は驍勇で戦に巧みで、二石の弓を引いて外すことがなかったが、性として殺を好んだ。滄州が破れたとき、成祖は証明書を与えて降卒を解散させるよう命じたが、まだ帰していない三千餘人について翌日に証明書を与えることになっていた。淵は一夜のうちにこれをすべて殺した。王が怒ると淵は「こやつらは皆壮士だ。放せば後患となる」と言った。王は「お前の言うとおりなら敵を皆殺しにすべきだが、敵は殺し尽くせるものか」と言った。淵は恥じて退いた。
- 夾河の戦いで南軍の陣が動いて砂塵が上がったとき、淵は急いで前に出て格闘したが、馬がつまずいて殺された。成祖はこれを悼み惜しんだ。
- 即位すると都指揮使を贈り、崇安侯を追封し、諡は壮節。祠を立てて祀った。
譚忠とその後裔
- 子の忠は京師入城に従って功があり、また淵の功もあって新寧伯に封じられ、禄千石。
- 永樂二十年(1422年)、右掖を率いて沙漠征伐に従った。宣徳元年(1426年)、樂安征伐に従った。三年(1428年)、交阯征伐で軍律を失ったことに坐して獄に下され死罪と論じられたが、のち釈された。
- 没して子の璟が嗣ぐことを乞うたが、吏部は忠が死罪だったので襲うべきでないと言った。帝は「鉄券には死を免ずる文がある。嗣がせよ」と言った。
- 二代を経て孫の祐に至る。成化年間に南京の協守となり、還って前府を掌り團營を提督し、太傅まで累加された。伯を嗣いで六十九年でようやく没し、諡は荘僖。
- 子の綸が嗣ぎ、嘉靖十四年(1535年)に湖廣を鎮して九溪の蛮を討って功があり、禄を増されたが、軍士を私用に使ったことに坐して爵を奪われた。数代を伝えて𢎞業に至り、国が亡ぶと賊に殺された。