出自と靖難の武功
- 朱能は字を士𢎞、懐遠の人。父の亮は太祖に従って長江を渡り、功を積んで燕山䕶衛副千戸となった。能はその職を継いで成祖の藩邸に仕え、かつて北征に従って元の太尉の多爾濟布哈を降した。
- 燕兵が起こると張玉と謀って張昺・謝貴を殺し、九門を奪い、指揮同知を授けられた。軍勢を率いて薊州を抜き馬宣を殺し、遵化を下した。
- 雄縣攻略に従い、月様橋で戦って楊松・潘忠を捕らえ、鄚州でその衆を降し、まっすぐ真定に至って耿炳文の軍を大破した。能はひとり決死の士三十騎で敗走する敵を追い、滹沱河に至って馬を躍らせ大声を上げて南軍に突入した。数萬の軍勢はみな崩れ、踏みつけられて死ぬ者がきわめて多く、三千餘人が降った。成祖は自筆の書で労った。
- 都指揮僉事に進み、永平の救援に従って吳髙を走らせ、大寧を襲って落として還り、左軍を率いて鄭村壩で李景隆を破った。
- 廣昌・蔚州・大同攻めに従い、白溝河の戦いでは前鋒となって二度平安の軍を破った。
- 進んで濟南を攻め、華山に宿営したところ、南軍が高所に拠って陣を敷いた。能は奇兵でその背後に回り込んで襲い破り、萬餘人を降した。
- 滄州攻めに従い、東門を破って入り、斬首は萬餘級。
東昌以後と靈壁の勝利
- 東昌の戦いでは盛庸・鐵鉉が成祖を幾重にも囲み、張玉は戦死した。事態が急となると、能は周長らを率いて決死の戦いをし、成祖を助けて囲みを破って出た。
- また夾河の戦いに従い、譚淵が死んで燕師は挫かれたが、能が至って二度戦い二度勝ち、軍はふたたび振るった。
- 平安と藁城で戦って破り、追撃して真定に至り、彰徳・定州の地を掠め、西水塞を破り、軽騎千人を率いて衡水を掠め、指揮の賈榮を捕らえ、東阿・東平を落とし、汶上の諸寨をことごとく破った。
- まもなく王真が淝河で戦死し、燕軍はしばしば敗れ、諸將は軍を返そうと議した。能ひとりが剣を按じて「漢の高祖は十戦して九たび敗れたが、ついに天下を得た。今、事を起こして連戦連勝しているのに、少し挫けたからといって帰り、あらためて北面して人に仕えられようか」と言った。成祖も諸將を叱って「お前たちの行きたいところへ行け」と言ったので、諸將は何も言えなくなった。
- そのまま兵を率いて南下し、平安の銀牌軍を破り、都督の陳暉が援けに来たのもまた破り、ついに靈壁の軍を抜いて平安らを捕らえ、十萬の衆を降した。
- 右軍都督僉事まで累進し、進んで泗州を落とし、淮を渡って盛庸の兵を破り、盱眙を抜き、揚州を下し、長江を渡って金川門に入った。
成國公と安南遠征での死
- 九月甲申、功を論じて邱福に次ぐ位とされ、奉天靖難推誠宣力武臣・特進榮祿大夫・右柱國・左軍都督府左都督を授けられ、成國公に封じられ、禄二千二百石、世襲の鉄券を賜った。
- 永樂二年(1404年)、太子太傅を兼ね、禄千石を加えられた。
- 四年(1406年)七月、詔により能は征夷將軍の印を佩び、西平侯の沐晟を左副將軍として、廣西・雲南から道を分けて安南を討つこととなり、帝は自ら龍江まで送った。十月、龍州まで進んだところで軍中に没した。年三十七。
- 能は諸將のなかで最も年少で戦に巧みであり、張玉は謀に長けていたので、帝は二人を左右の手と頼んだ。玉が没したのちは、軍中の進退はすべて能に諮った。
- 能は身の丈八尺、雄々しく毅然として心が広く、家では孝悌に篤く、上公の位に列しても富貴で人に驕らず、士卒をよく撫した。没した日、將校はみな涙を流した。
- 勅により昌平に葬られ、東平王を追封され、諡は武烈。洪熙の時、成祖の廟廷に配享された。
朱勇
- 子の勇が嗣ぎ、元勲の子として特に任用され、都督府の事を掌り、南京に留守した。
- 永樂二十二年(1424年)、北征に従った。宣宗が即位すると漢庶人の平定に従い、烏梁海を征した。張輔が兵権を解かれると、詔で勇が代わった。
- 勇は、南北の諸衛所の軍が辺備と転運を入り混じって担うのは不便だとして、南軍には転運、北軍には辺備を専任させるよう請うた。また京軍が遠方の戍に多く出るのは重を居えて軽を馭する道でないとして、精兵十萬を選んで増すことを請い、さらに公・侯・伯・都督の子弟に操練させることを請うた。いずれも許された。
- 正統九年(1444年)、喜峰口を出て朶顔の諸部を撃ち、富峪川まで至って還ったが、兵部尚書の徐晞に弾劾された。詔で問われず、まもなく功を論じて太保を加えられた。
- 勇は赤ら顔に虬のような髭で容貌はたいそう堂々としていたが、勇略は足りず、士大夫を敬い礼遇した。
- 十四年(1449年)、車駕に従って土木に至り、鷂兒嶺で迎え撃って伏兵に遭い戦死した。率いた五萬騎はみな失われた。于謙らが勇の罪を追論して封を奪った。
- 景泰元年(1450年)、勇の子の儀が葬祭を乞うたが、帝は勇が大將でありながら軍を失い国を辱め、乗輿を陥れたとして許さなかった。のち襲爵を請い、禮部尚書の胡濚がこれを主張し、また東宮を立てた恩によって嗣ぐことができたが、歳禄は千石に減らされた。天順の初め、勇に平陰王を追封し、諡は武愍。
- 儀とその子の輔はいずれも南京を守備した。
朱希忠・朱希孝・朱純臣
- さらに三代を経て希忠に至る。世宗の承天行幸に従い、行在の左府の事を掌った。衛輝の行宮に至った夜に火が出て、希忠は都督の陸炳とともに帝を助けて脱出させ、これによって恩遇を受けた。
- 西苑に入直し、後府・右府の両府を掌り、神機營を統べ、十二團營および五軍營を提督した。累進して太師を加えられ、禄七百石を増され、帝に代わって郊天の祭を行うこと三十九回、賜与は数え切れなかった。
- 没して定襄王を追封され、諡は恭靖。萬暦十一年(1583年)、給事中の余懋學の言によって王爵を追奪された。
- 弟の希孝もまた都督に至り、太保を加えられ、没して太傅を贈られ、諡は忠僖。
- 希忠から五代を伝えて曽孫の純臣に至る。崇禎の時に信任され、李自成が京師に迫ると、帝は自ら勅を書いて純臣に中外の諸軍を總督させ太子を輔けさせようとしたが、勅が下らないうちに城はすでに陥落し、賊に殺された。