出自と燕王への帰属
- 張玉は字を世美、祥符の人。元に仕えて樞密知院となった。元が亡ぶと従って漠北へ走った。
- 洪武十八年(1385年)に帰順し、大軍に従って塞を出て捕魚兒海に至り、功によって濟南衛副千戸を授けられ、安慶衛指揮僉事に遷った。
- また遠順・散毛の諸洞の征討に従い、北は辺境を侵す元の人々を追って鴉寒山に至って還り、燕山左䕶衛に移された。燕王に従って塞を出て黒松林に至り、また野人諸部の征討に従った。驍勇果敢で謀計に長けていたので王に親任された。
挙兵と真定の大勝
- 建文元年(1399年)、成祖が挙兵すると、玉は軍勢を率いて北平の九門を奪い、城内外を撫し諭して三日で平定した。
- 軍が南下しようとすると、玉は計を献じ、朱能を遣わして東の薊州を攻めて馬宣を殺し、遵化を降し、兵を分けて永平・密雲を下し、いずれもその精鋭の武具を得て軍を強化した。都指揮僉事に抜擢された。
- 当時、朝廷は大軍を出して燕を討ち、都督の徐凱は河間に、潘忠・楊松は鄚州に軍し、長興侯の耿炳文は三十萬の兵で真定に軍していた。玉は進言して「潘と楊は勇はあるが謀がない。襲えば捕らえられます」と言った。
- 成祖は玉に親兵を率いて前鋒とさせた。樓桑に至ったのはちょうど中秋で、南軍は宴会の最中だった。夜半に急行して雄縣を破り、忠と松が救援に来たところを月漾橋で迎撃して生け捕り、鄚州を落とした。
- 玉は自ら軽騎で炳文の軍を偵察して帰り、「軍に規律がなく、その上に敗軍の気が漂っている。急いで撃つべきだ」と言った。成祖は兵を率いて西へ進み、無極に至って諸將に進む先を諮った。諸將は南軍が盛んなので新樂に屯するよう請うたが、玉は「彼らは多いが皆寄せ集めだ。我が軍は勝ちに乗じてまっすぐ真定へ趨れば、必ず破れる」と言った。成祖は喜んで「わしは玉を頼りにすれば大事を成せる」と言った。
- 翌日、真定に至って炳文の軍を大破し、副將の李堅・寗忠、都督の顧成らを捕らえ、斬首は三萬。さらに安陸侯の吳傑の軍を破った。燕兵はこれによって大いに振るった。
大寧襲撃から白溝河まで
- 江陰侯の吳髙が遼東の兵で永平を囲み、曹國公の李景隆が数十萬の兵で北平を攻めようとした。成祖は玉と謀ってまず永平を救援した。着くと髙は逃げ去り、玉は追撃して多くを斬った。
- そのまま間道から大寧を襲い、その衆を引き抜いて還り、會州に宿営した。ここで初めて五軍を編制し、玉に中軍を率いさせた。
- そのとき李景隆はすでに北平を囲んでいた。成祖が軍を返して鄭村壩で大戦し、景隆は敗れた。成祖は勝ちに乗じて城下に至り、城中の兵も鬨の声を上げて出て内外から挟撃し、南軍は大いに潰えた。
- 翌年、廣昌・蔚州・大同攻めに従った。景隆が敗残兵を集め百萬と号してまた来るという諜報が入ると、玉は「兵は神速を貴ぶ。まず白溝河を押さえ、逸をもって労を待ちましょう」と言った。河のほとりに三日駐屯したところで景隆が至り、精騎で駆けて撃ってまた大破した。
- 進んで徳州を抜き、追撃して濟南に至り、その城を三か月囲んだが、囲みを解いて還った。まもなくふたたび出て滄州を破り、徐凱を捕らえた。
東昌の戦死
- 進んで東昌を攻め、盛庸の軍と遭遇した。成祖は数十騎でその背後に回り込んだが、庸は幾重にも囲んだ。成祖は奮撃して脱出できた。
- 玉は成祖の所在が分からず、陣中に突入して力戦し、数十人を斬り殺したが、傷を負って死んだ。年五十八。
- 燕兵が起こって以来三年転戦し、その鋭鋒は盛んだったが、ここで大將を失って全軍が気を落とした。軍が北平に還ると、諸將は叩頭して罪を請うた。成祖は「勝敗は常のことで数えるに足りぬ。ただ玉を失ったのが恨めしい。艱難のときに我が良き輔けを失った」と言い、涙を流して止まらなかった。
- のちに譚淵が夾河で没し、王真が淝河で没したが、悼み惜しむことは玉ほどではなかった。
- 建文四年(1402年)六月、成祖が帝を称すると玉に都指揮同知を贈り、九月甲申に榮國公を追贈し、諡は忠顯。洪熙元年(1425年)三月、河間王に加封し、諡を忠武に改め、東平王の朱能・金鄉侯の王真・榮國公の姚廣孝とともに成祖の廟廷に配享された。
- 子は三人。長は輔、次は輗、次は軏。従子は信。輔には別に伝がある。
張輗
- 輗は功臣の子として神䇿衛指揮使となった。
- 正統五年(1440年)、英國公の輔が、輗が墓守を殴り、その言葉が先臣にまで及んで無礼だと訴えた。帝は錦衣衛に取り調べさせて事実と認め、拘禁したが、まもなく釈した。
- 三度遷って中府右都督となり、宿衛を率いた。景泰三年(1452年)、太子太保を加えられた。英宗が復位すると、軏の迎立の功によって輗もあわせて文安伯に封じられ、禄は千二百石。
- 天順六年(1462年)に没し、侯を贈られ、諡は忠僖。子の斌が嗣いだが、呪詛に坐して爵を奪われた。
張軏
- 軏は永樂年間に宿衛に入り、錦衣衛指揮僉事となった。宣宗の髙煦征討に従い、また成國公の朱勇に従って塞を出て氊帽山に至った。
- 正統十三年(1448年)、副總兵として麓川を征し、還って貴州の叛苗を討った。功を積んで前府右都督となり、京營の兵を統べた。
- 景泰二年(1451年)、驕り淫らで道に背いたとして獄に下されたが、まもなく釈された。
- 景帝が病んだとき、石亨・曹吉祥とともに上皇を南城に迎え、太平侯に封じられ、禄二千石。于謙・王文・范廣の死には軏の力があった。賄賂を受け政を乱すことは石亨に次いだ。
- 天順二年(1458年)に没し、裕國公を贈られ、諡は忠襄。子の瑾が嗣いだが、成化二年(1466年)に奪門の功が取り消され、侯を奪われて指揮使を授けられた。
張信
- 信は建文二年(1400年)の郷試に首席で及第した。永樂年間に刑科都給事中を歴任し、しばしば事を論じ、工部右侍郎に抜擢された。
- 命を奉じて開封の決河を視察し、魚王口から中欒に至る旧河道二十餘里を浚うことを請い、詔でその議のとおりとされた。詳しくは宋禮の伝にある。
- 出て浙江の海塘を治めたが、事に坐して交阯に流された。
- 洪熙の初め、召されて兵部左侍郎となった。帝がかつて英國公の輔に「兄弟で恩を加えるべき者はいるか」と問うたところ、輔は叩頭して「輗と軏は上の恩を蒙って近侍に列しておりますが、いずれも奢侈です。ただ従兄の侍郎の信は賢く、用いることができます」と答えた。帝は信を召見して「これが英國公の兄か」と言い、急いで武官の冠をかぶらせ、錦衣衛指揮同知に改めて世襲とした。当時は開国から遠くなく、武階が重んじられていたためである。
- 職にあって公平寛恕をもって知られた。宣徳六年(1431年)、四川都指揮僉事に遷り、蜀にあること十五年で致仕した。