明史卷一百四十五 列傳第三十三 姚廣孝

篇首の立伝者一覧

  • 本篇に立てられた伝は次のとおり(括弧内は附伝)。
  • 姚廣孝
  • 張玉(子の輗・軏、従子の信)
  • 朱能
  • 邱福(李遠・王忠・王聰・火真)
  • 譚淵
  • 王真
  • 陳亨(子の懋、徐理・房寛・劉才)

出家と燕王との出会い

  • 姚廣孝は長洲の人。もと医家の子。十四歳で得度して僧となり、名を道衍、字を斯道といった。道士の席應真に師事してその陰陽術数の学を得た。
  • かつて嵩山寺に遊んだとき、人相見の袁珙が見て「これは何という異様な僧か。目は三角で、病んだ虎のような姿だ。性は必ず殺を好むだろう。劉秉忠の類だ」と言った。道衍は大いに喜んだ。
  • 洪武年間、儒書に通じた僧を礼部で試験する詔があり、道衍は官を受けず僧衣を賜って帰った。帰途、北固山を過ぎて懐古の詩を賦した。同輩の宗泐が「これがどうして仏弟子の言葉か」と言ったが、道衍は笑って答えなかった。
  • 髙皇后が崩じ、太祖は高僧を選んで諸王に侍らせ、経を誦して冥福を薦めさせた。宗泐は当時左善世であり、道衍を推挙した。燕王は語り合って大いに意気投合し、連れて行くことを請うた。
  • 北平に至って慶夀寺の住持となり、府中に出入りして親密を極め、しばしば人払いをして語り合った。

挙兵の献策

  • 太祖が崩じ、惠帝が立って次々に諸王を削り奪い、周・湘・代・齊・岷が相次いで罪を得た。道衍はそこで密かに成祖に挙兵を勧めた。
  • 成祖が「民心は彼に向いている。どうするのか」と言うと、道衍は「臣は天道を知るのみ。民心など論ずるに及びません」と答え、袁珙および卜者の金忠を推挙した。そこで成祖の意はますます固まり、ひそかに將校を選び軍卒を集め、才力と特異な能力のある士を集めた。
  • 燕邸はもと元の宮殿の跡で奥深い。道衍は後苑で兵を練り、地を掘って重層の建物を作り、厚い垣を巡らせ、瓦や瓶・甕を隙間なく敷き詰めて、昼夜武器を鋳造した。鵞鳥や鴨を飼ってその音を紛らわせた。
  • 建文元年(1399年)六月、燕府䕶衛百戸の倪諒が変事を訴え出て、府中の官属を逮捕する詔が下った。都指揮の張信が成祖に誠意を通じ、成祖はついに挙兵を決した。
  • ちょうど大風雨が至って軒の瓦が地に落ちた。成祖が顔色を変えると、道衍は「吉兆です。飛龍が天にあれば風雨が従うもの。瓦が落ちたのは黄色に替えるということです」と言った。
  • 兵は齊泰・黄子澄を誅するを名目とし、その軍を「靖難の師」と号した。道衍は世子を輔けて留守した。

北平の守りと戦局の指図

  • その年十月、成祖が大寧を襲うと、李景隆はその隙に北平を囲んだ。道衍の守りはきわめて堅く、攻める者を撃退し、夜に壮士を綱で降ろして南兵を傷つけた。援軍が至ると内外呼応して撃ち、斬首は数知れなかった。景隆・平安らは前後して敗れて逃げた。
  • 成祖が濟南を三か月囲んで落とせずにいると、道衍は書を馳せて「軍が疲れております。撤退なさいませ」と請い、そこで軍を還した。
  • ふたたび東昌を攻めて敗れ、大將の張玉を失って戻った。成祖は少し休もうとしたが、道衍は強く督促し、いっそう勇士を募った。こうして盛庸を破り、房昭の西水寨を破った。
  • 道衍は成祖に、城邑を落とそうとせず一気に京師へ趨るべきで、京師は手薄だから必ず陥ると説いた。成祖はこれに従い、ついに淝河・靈壁で諸將を連破し、長江を渡って京師に入った。

功第一と太子少師

  • 成祖が帝位に即くと、道衍を僧錄司左善世に任じた。帝が藩邸にあったとき接したのはみな武人であり、ひとり道衍だけが策を定めて挙兵させた。帝が山東・河北で転戦した三年、軍中にあって、あるいは同行しあるいはせずとも、戦守の機事はすべて道衍が決した。道衍は戦陣に臨んだことがなかったが、帝が兵を用いて天下を得たのは道衍の力によるところが多く、功を論じて第一とされた。
  • 永樂二年(1404年)四月、資善大夫・太子少師に任じられ、姓を復して「廣孝」の名を賜り、祖父にもその官に準じて追贈された。帝は語るとき「少師」と呼んで名を呼ばなかった。
  • 髪を伸ばすよう命じられたが従わず、邸宅と二人の宮人を賜っても受けず、常に僧寺に住み、冠帯をつけて朝に出、退くとまた墨染めの衣に戻った。
  • 蘇州・湖州の賑恤に出て長洲に至ると、賜った金帛を一族と郷人に分け与えた。
  • 太祖實録の重修では廣孝が監修を務め、また解縉らとともに永樂大典を編纂した。完成すると帝は褒め称えた。
  • 帝が両都を往来し塞を出て北征する間、廣孝はいつも南京に留まって太子を輔けた。
  • 五年(1407年)四月、皇長孫が出閤して学に就くと、廣孝は侍って書を講じた。

溥洽の赦免と最期

  • 十六年(1418年)三月、入朝したとき年八十四。病が重く朝に出られず、なお慶夀寺に住んだ。帝は二度も車駕を出して見舞い、語らいはたいそう和やかで、金の唾壺を賜り、望みを問うた。廣孝は「僧の溥洽が長く獄につながれております。どうか赦してください」と言った。
  • 溥洽は建文帝の主錄僧である。はじめ帝が南京に入ったとき、建文帝は僧となって逃れ、溥洽がその事情を知っている、あるいは溥洽のもとに匿われているという者があった。帝はそこで別件で溥洽を拘禁し、給事中の胡濚らに広く建文帝の行方を探らせたが、久しく見つからなかった。溥洽は十餘年つながれていたが、ここに至って帝は廣孝の言によってただちに釈放を命じた。廣孝は叩頭して謝し、まもなく没した。
  • 帝は深く悼み、二日にわたって朝の政務を停め、有司に喪を治めさせ、僧の礼をもって葬らせた。推誠輔國協謀宣力文臣・特進榮禄大夫・上柱國・榮國公を追贈し、諡は恭靖。房山縣の東北に葬ることを賜り、帝は自ら神道碑を作ってその功を記し、養子の繼を尚寳少卿に任じた。

人となりと後日の処遇

  • 廣孝は若いころから学を好み詩に巧みで、王賔・髙啓・楊孟載と親しく、宋濂・蘇伯衡もこれを推奨した。
  • 晩年に『道餘録』を著し、先儒をかなり誹謗したので、識者はこれを軽んじた。
  • 長洲に至って同腹の姉を訪ねたが、姉は迎え入れなかった。友人の王賔を訪ねたが、賔も会わず、遠くから「和尚は誤った、和尚は誤った」と言うだけだった。ふたたび姉に会いに行くと、姉は罵った。廣孝は茫然とした。
  • 洪熙元年(1425年)、少師を加贈され、成祖の廟庭に配享された。
  • 嘉靖九年(1530年)、世宗が閣臣に諭して「姚廣孝は開国を輔け中興を継いだ功績が確かにある。ただ釈氏の徒であり、功臣に列して太廟で侑食させるのは祖宗を尊敬するに足りないのではないか」と言った。そこで尚書の李時が大學士の張璁・桂萼らとともに議し、大興隆寺へ祀りを移し、太常が春秋に祭りを行うよう請い、詔で「可」とされた。