明史卷一百四十四 列傳第三十二 顧成

顧成(字は景韶、?–1414年)は先祖を湘潭とし江都に住んだ武人で、腕力と馬上の槊に長けた。太祖の渡江に際して帰順し帳前の親兵となり、鎮江攻めで功を立てて百戸を授かった。蜀の平定に従ったのち貴州に十餘年鎮して苗の洞寨百を討ち平らげ、首謀者だけを誅して衆を撫する恩信で蛮人を帰服させた。靖難では耿炳文に従って燕師を防いで真定で捕らえられ、燕王に許されて世子の留守を輔け、即位後は鎮遠侯に封じられて再び貴州を鎮した。忠実で慎み深く、太子に誠と孝敬を説いて辞去し、没後に夏國公を贈られ諡は武毅。

年表(18件)

出自と太祖への帰順

  • 顧成は字を景韶。先祖は湘潭の人で、祖父の代は舟を操って江淮の間を往来する生業だったので江都に住みついた。
  • 成は若くして体格がたくましく腕力が人並み外れ、馬上の槊に巧みで、身に文身を入れて人と異なることを示した。
  • 太祖が長江を渡ったとき帰順し、勇をもって帳前の親兵に選ばれ、蓋を捧げて出入りした。かつて太祖に従って出たとき、舟が砂に乗り上げると、成は舟を背負って進んだ。
  • 鎮江攻めに従い、勇士十人とともに転戦して入城したが捕らえられ、十人はみな死んだ。成は躍り起きて縄を断ち、刀を持つ者を倒して脱出し、軍を導いて城を攻め落とした。百戸を授けられた。

蜀の平定と貴州の鎮撫

  • 大小数十戦にいずれも功があり、堅城衞指揮僉事に進んだ。蜀征伐に従い、羅江を攻めて元帥以下二十餘人を捕らえ、進んで漢州を降し、蜀が平定すると成都後衛に移された。
  • 洪武六年(1373年)、重慶の妖賊の王元保を捕らえた。八年(1375年)、貴州の守りに転じた。当時、諸蛮は叛いたり服したり定まらず、成は連年出兵してことごとく平定した。
  • のち潁川侯の傅友徳に従って雲南を征し、前鋒となって真っ先に普定を落とした。成が残されて柵を並べて守っていると、蛮の数萬が攻め寄せた。成は柵を出て自ら数十百人を斬り、賊は退いて走った。残る賊がなお南の城にいたので、成は捕虜を斬りながら一人だけ放して「わしは夜二鼓に来てお前たちを殺す」と言わせた。夜の二鼓になって角笛を吹き砲を鳴らすと、賊は聞いてみな逃げ去り、得た武具は数え切れなかった。指揮使に進み、普定に属する諸蛮はすべて平定された。
  • 十七年(1384年)、阿黑・螺螄など十餘の寨を平らげ、翌年、上奏して普定府を廃し、その地を三州六長官司に分け、貴州都指揮同知に進んだ。賄賂を受け玉器などを僭用したと告発する者があったが、長年の労苦を理由に問われなかった。
  • 二十九年(1396年)、右軍都督僉事に遷り、征南將軍の印を佩び、何福とともに水西の蛮を討ってその酋長の居宗必登を斬った。翌年、西堡・滄浪の諸寨の蛮が乱を起こすと、成は指揮の陸秉とその子の統を遣わし、道を分けて討ち平らげた。
  • 成は貴州に十餘年おり、討ち平らげた苗の洞寨は百を数えた。いずれも首謀者だけを誅し残る衆を撫し、恩信が広く行き渡って蛮人は帰服した。この年二月、京に召し還された。

燕への降伏と鎮遠侯

  • 建文元年(1399年)、左軍都督となって耿炳文に従って燕師を防いだが、真定の戦いで捕らえられた。燕王は縛を解いて「これは天がお前をわしに授けたのだ」と言い、北平へ送って世子を輔けて留守させた。南軍が城を囲んだとき、防禦と指図はすべて成に任された。
  • 燕王が即位すると功を論じて鎮遠侯に封じ、禄一千五百石、世襲の鉄券を賜い、なお貴州を鎮するよう命じた。
  • 永樂元年(1403年)、上書して西北の諸辺を厳重に備えること、早く東宮を立てることを請い、帝は褒めて答えた。
  • 六年(1408年)三月、召されて京に至り、金帛を賜って帰された。思州宣慰使の田琛と思南宣慰使の田宗鼎が兵を構えると、詔により成は兵五萬でその境に圧力をかけ、琛らは捕らえられた。そこで思州・思南の地を分けて州県を置き換え、貴州布政司を設けた。
  • その年八月、臺羅の苗の普亮らが乱を起こし、詔により成は二都司・三衛の兵を率いて討ち平らげた。

人となりと最期

  • 成は忠実で慎み深く、書史を広く読んだ。はじめ北平にいたころは謀計を献ずることが多かったが、ついに兵を率いようとせず、兵器を賜っても受けなかった。
  • ふたたび貴州を鎮し、播州・都勻の諸叛苗をしばしば平らげ、威は南中に鎮まり、土人は生祠を立てて祀った。
  • 京に召されたとき、太子を輔けて監國させようとされたが、成は叩頭して「太子は仁明であり、廷臣もみな賢者です。輔導の事は愚かな臣の分かるところではありません。帰って蛮に備えさせてください」と言った。
  • 当時、小人どもが嫡を奪おうと謀り、太子は落ち着かなかった。成は文華殿で辞去のあいさつをした際に「殿下はただ誠を尽くして孝敬し、ひたすら民を憐れむのがよろしい。万事は天にあり、小人など気にかけるに足りません」と言った。
  • 十二年(1414年)五月に没した。年八十五。夏國公を贈られ、諡は武毅。

顧統・顧興祖

  • 成には八人の子があり、長子の統は普定衞指揮であったが、成が燕に降ったため誅殺された。
  • 統の子の興祖が侯を嗣いだ。仁宗が即位すると廣西の蛮が叛き、詔により興祖は總兵官として討伐し、前後に潯州・樂平・思恩・宜山の諸苗を討ち平らげ、降伏帰属する者はきわめて多かった。
  • 宣徳年間、交阯の黎利がふたたび叛いて隘留關を陥れ邱温を囲んだが、そのとき興祖は南寧にあって兵を擁したまま援けなかったので、召し出されて錦衣衛の獄に下され、一年余りで釈された。
  • 正統の末、北征に従い、土木から脱して帰り、死罪と論じられた。額森が都城に迫ると冠帯を戻され、副總兵として城外で敵を防ぎ、都督同知を授けられて紫荆關を守備した。
  • 景泰三年(1452年)、収賄に坐してふたたび獄に下されたが、まもなく釈され、東宮を立てた恩によって伯爵を与えられた。天順の初め、侯に復し、南京を守備して没した。

顧淳・顧溥

  • 孫の淳が嗣いだが、没して子がなかったので、従弟の溥が嗣ぎ、五軍の右掖を掌った。
  • 𢎞治二年(1489年)、平蠻將軍に任じられて湖廣を鎮し、着任するとすぐ苗中の首悪を捕らえて斬った。
  • 五年(1492年)十月、貴州都勻の苗の乜富架が乱を起こして都順王を自称し、滇・蜀の道を塞いだ。詔により溥は總兵官として兵八萬を率い、五路に分けて期日を定めて同時に進み、富架父子を誅し、斬首は万を数えた。太子太保を加えられ、禄二百石を増され、召されて團營を提督し、前軍都督府の事を掌った。
  • 十八年(1505年)に没し、諡は襄恪。溥は清廉で慎み深く法を守り、没した日、袋の中に余分な財がなかったので、英國公の張懋が布帛を出して殮した。

顧仕隆

  • 子の仕隆が嗣ぎ、神機營の左哨を管して士心を得た。
  • 正徳の初め、漕運總兵として出て、しばしば軍卒の救恤を請うた。淮安を鎮すること十餘年、清白をもって知られた。
  • 武宗が南巡したとき、江彬が横暴を極めて諸大吏を辱めたが、仕隆だけは屈しなかった。
  • 嘉靖の初め、鎮を湖廣に移し、まもなく召し還され、奉迎と防守の功を論じて太子太傅を加えられ、中軍都督府の事を掌った。
  • 錦衣千戸の王邦竒が大學士の楊廷和と兵部尚書の彭澤を怨み、上疏して哈密の失策は二人によるものだと言った。帝は怒って廷和の諸子と婿を逮捕し、給事中の楊言が上疏して救おうとして意に忤らった。事は五府・九卿・科道の議に下され、仕隆は「廷和の功は社稷にある。邦竒は小人で、辺事にかこつけて聖聴を惑わし国体を傷つけている」と述べた。詔で厳しく責められ、病と称して營務を解いて没した。太傅を贈られ、諡は榮靖。

顧寰

  • 子の寰が嗣ぎ、南京を守備した。詔を奉じて獄を裁き、平反したものが多かった。
  • 嘉靖十七年(1538年)、漕運總兵官となった。翌年、獻皇后の梓宮が承天へ赴くにあたり、漕舟で梓宮を避けて期日に遅れたものが三千あり、しかも江南・江北は災害が多かった。寰は被災地の漕運を一年停止し、折色(銀納)に改めさせるよう請い、軍民ともに便とした。また漕政について七事を条上していずれも施行された。
  • 漕運で私腹を肥やしていた者たちはこれを苦にして流言を広め、給事中の王交に弾劾されたが、調べたところ事実でなかった。ふたたび淮安を鎮した。

顧寰――兩廣鎮守と晩年

  • 折しも安南の事が起こり、鎮を兩廣に移した。莫宏瀷は安南都統使の莫福海の子である。福海が死んだとき宏瀷は幼く、その権臣の阮敬が一族の莫正中と兵を構えて国内が乱れ、正中は欽州に逃げ込んだ。
  • 当時、その隙に乗じて安南を取ろうと議する者があったが、寰は提督侍郎の周延と策を決して朝廷に請い、宏瀷に都統使を襲がせ、安南はこれで安定した。嘉靖三十年(1551年)のことである。
  • まもなく兵をもって桂林・平樂の叛猺を討ち平らげ、ふたたび淮を鎮するよう命じられ、倭を防いだ功があった。入って京營を統べ、太子太保を加えられ、また出て漕運を督し、召し還されて致仕を願った。
  • 隆慶五年(1571年)、特に起用されて京營總督を授けられ、まもなく引退を乞うた。神宗が位を継ぐと起用されて左府を掌り、久しくして致仕し、少保を加えられた。萬暦十年(1582年)に没し、太傅を贈られ、諡は榮僖。
  • 溥から寰まで三代はいずれも寛和で清廉静謐、家庭内の行いは慎み深く、文藝を解した。仕隆と寰の二代はともに漕運を督して職務に励んだ。
  • 三代を経て孫の肇跡に至り、京師が陥落して賊に殺された。

史論

  • 贊に曰く。東昌・小河の戦いで盛庸と平安はしばしば燕師を挫き、その驍將を斬った。その功はまことに壮んである。しかし兵が敗れて捕らえられると、義に殉じて自ら命を絶つことができず、恥を忍んで生き永らえた。鐵鉉・暴昭らに比べて恥じるところがないと言えようか。
  • 何福と顧成はいずれも太祖の時の宿將で辺境に功を著したが、ひとたび燕兵に遭うと、一方は退いて南へ走り、一方は身を捕らえられた。成祖が瑕を捨てて旧臣を用い、ともに封土を与えたのは幸運というべきである。
  • 福は結局、功名をもって終わることができず、成は子孫にまで及んだとはいえ、栄誉が屈辱に及ばない。何ら取るに足りないことである。