出自と西南の平定
- 何福は鳳陽の人。洪武の初め、功を重ねて金吾後衛指揮同知となった。傅友徳に従って雲南を征し、都督僉事に抜擢され、また藍玉に従って塞を出て捕魚兒海に至った。
- 二十一年(1388年)、江陰侯の吳髙が北方から降った者を率いて南征し、沅江に至ったところで衆が叛き、思州を経て荆・樊に出て、渭河の道から沙漠へ逃げ帰ろうとした。翌年正月、福は都督の聶緯とともに追撃し、鄜・延で追いつき、ことごとく殲滅した。
- 兵を移して都勻の蛮を討ち平らげ、捕虜と斬首は万を数えた。
- 二十四年(1391年)、平羌將軍に任じられ、越州の叛蛮の阿資を討って破り降伏させた。地を選んで柵を立ててその衆を住まわせ、寧越堡を置き、九名九姓の諸蛮を平定した。
- まもなく都督の茅鼎と兵を合わせて五開へ向かおうとしたが、出発しないうちに畢節の諸蛮がまた叛き、屯堡を大いに掠め吏士を殺した。福は畢節の諸衛に厳重な備えを命じ、都督の陶文らに檄して鼎に従いその巣を衝かせ、叛いた酋長を捕らえて誅した。兵を分けて諸蛮をことごとく捕らえ、堡を築き戍を設けたうえで五開に赴いた。兵力によって水西の奢香を討つことを請うたが許されなかった。
- 三十年(1397年)三月、水西の蛮の居宗必登らが乱を起こしたが、顧成と協力して討ち平らげた。
麓川の平定
- その冬、征虜左將軍に任じられ、西平侯の沐春の副として麓州の叛蛮の刀幹孟を討った。翌年、福は都督の瞿能とともに髙良公山を越えて南甸を衝き、その酋長の刀名孟を捕らえた。軍を返して景罕寨を攻めたが落とせず、春が精鋭を率いて至ると賊は驚いて潰え、幹孟は恐れて降伏を乞うた。
- まもなく春が没すると賊はまた二心を抱いた。このとき太祖はすでに崩じ、惠帝が即位したばかりで、福を征虜將軍に任じた。福はついに刀幹孟を破って捕らえ、その衆七萬を降し、兵を分けて諸寨を下し、麓川の地はすべて平定した。
- 建文元年(1399年)に京師へ帰り、功を論じて都督同知に進み、徳州で兵を練り、左都督に進んだ。盛庸・平安と兵を合わせて燕を討ったが、淮の一帯の戦いで利なく、敗走して帰った。
寧夏・甘肅の鎮守
- 成祖が即位すると、福は宿將で兵事に通じているとして誠意をもって用い、その甥の娘の徐氏を趙王妃に迎えた。
- まもなく征虜將軍の印を佩び總兵官として寧夏を鎮し、山陝・河南の諸軍を節制した。福は鎮に至ると徳意を宣布して遠方の人々を招き、塞外の諸部で降る者が相次ぎ、辺境は無事となった。そこで駅を置き屯田して穀を蓄え、賞罰を定めて長久の計とすることを請うた。福を讒言する者があったが、帝は聴かず、勅を下して褒め慰めた。
- 永樂四年(1406年)八月、鎮を甘肅に移した。福の軍の統御は厳しく、部下には不満を持つ者が多かった。帝はときおり使者を遣わし、身をよく守り小人につけ込まれぬよう戒めた。
- 六年(1408年)、福は京師の蕃將を遣わして北方から降った者を統率させるよう請うた。帝は「そなたが久しく蕃漢の兵を統べているので、勢力が大きくなって讒言を招くのを恐れているのだろう。そなたは老將であり、朕は誠意をもって重く頼んでいる。気にするな」と答えた。
- まもなく、布で馬を交易し、良馬を選び別に群として官を置き印を給して専管させることを請うた。これによって馬は大いに殖え、永昌の苑での牧馬はここに始まった。
寧遠侯と最期
- 翌年、布尼雅錫里が阿嚕台と結んで侵入しようとしたが、衛拉特に敗れて臚朐河へ走り、諸部の敗残兵を収めて河西をうかがおうとした。詔で福に厳重な備えを命じた。
- 北方の王子・國公・司徒以下十餘人が部下を率いて額齊訥に駐屯し、内附を乞うた。福が上聞すると、帝は庶子の楊榮を遣わして福を助けその衆を処理させ、みな降伏した。福は自ら額齊訥に赴いて鎮撫し、その酋長を京師に送った。
- 帝は福の功を嘉し、榮に命じて軍中で福を寧遠侯に封じさせ、禄は千石。あわせて軍中の事は先に行って後から報告してよいと詔した。
- 八年(1410年)、帝が北征するにあたり福を召して従わせ、塞を出た。
- はじめ帝は福に才略があるとして諸將を超えて寵任し、福もまた嫌疑を避けるのが上手で、事があっても専断しなかった。鎮にあったとき、西平侯の家が鞏昌に蓄えている馬を取って繁殖用に充てることを請うたが、帝は「皇考の時、貴顕近臣の家には多く馬の飼育を許し、富貴を共にする意を示された。そなたの奏はもとより国家のためではあるが、勲臣・外戚を待遇する道ではない」と答えて聴かなかった。そのほかの請願は行われ、委任はきわめて重かった。
- ところが従軍の際にしばしば節度に背き、その罪を言う群臣が出た。福はますます不満を抱いて怨み言を漏らした。軍が還ると都御史の陳瑛がまた弾劾し、福は恐れて首を吊って死んだ。爵位は除かれ、趙王妃もまもなく廃された。