篇首の立伝者一覧
- 本篇に立てられた伝は次のとおり。
- 盛庸
- 平安
- 何福
- 顧成
出自と濟南の守り
- 盛庸は出身が分からない。洪武年間に都指揮まで累進した。建文の初め、參將として耿炳文に従って燕を討ち、李景隆が炳文に代わると景隆の麾下に属した。
- 建文二年(1400年)四月、景隆は白溝河で敗れて濟南に走り、燕師が追って至ると景隆はさらに南へ走った。庸は參政の鐵鉉とともに力を尽くして固守し、燕師は三か月攻め囲んでも落とせなかった。
- 庸と鉉は夜に兵を出して不意を撃ち、燕の軍勢を大敗させた。燕は囲みを解いて去り、庸らは勝ちに乗じて徳州を回復した。
- 九月、功を論じて厯城侯に封じられ、禄は千石。まもなく平燕將軍・總兵官に任じられ、陳暉・平安が左右副總兵、馬溥・徐真が左右參將となり、鉉は兵部尚書に進んで軍務に参賛した。
東昌の大勝
- 当時、吳傑と平安が定州を守り、庸は徳州に駐屯し、徐凱は滄州に屯して掎角の勢をなした。
- この冬、燕兵が滄州を襲って破り、凱を捕らえ、輜重を奪い、濟寧に迫った。庸は兵を率いて東昌に屯してこれを迎え撃ち、城を背にして陣を敷いた。
- 燕王は兵を率いてまっすぐ庸軍の左翼に迫ったが動かず、さらに中堅を衝いた。庸は陣を開いて王を招き入れ、幾重にも包囲した。燕將の朱能が番騎を率いて救援に来たので、王はその隙に囲みを突いて脱出した。
- 燕軍は火器で傷つく者がきわめて多く、大將の張玉は陣中で死んだ。王はただ百騎で殿軍を務め、退いて館陶に至った。
- 庸は檄を飛ばして吳傑・平安に真定から燕の帰路を遮らせた。翌年正月、傑と安は深州で戦って利あらず、燕師はようやく帰ることができた。
- この戦いで燕の精鋭はほとんど失われ、庸軍の名声は大いに振るった。帝は宗廟に祭を行って勝報を告げた。
夾河の敗戦
- 三月、燕兵はふたたび南下して保定を出た。庸は夾河に陣営を構えた。王が軽騎で偵察に来て陣をかすめて通ったので、庸は千騎を遣わして追わせたが、燕師の射撃に退けられた。
- 戦いになると、庸軍は盾を並べて進んだ。王は歩卒に先に攻めさせ、騎兵がその隙に駆け込んだ。庸は軍を指揮して力戦し、燕將の譚淵を斬ったが、朱能・張武らが軍勢を率いて必死に戦い、王は精強な騎兵で陣を貫いて能と合流した。庸の部下の驍將である莊得・皂旗張らはみな戦死した。この日、燕軍はあやうく敗れるところであった。
- 翌日ふたたび戦った。燕軍は東北、庸軍は西南に位置し、辰の刻から未の刻まで勝敗が入れ替わり、両軍とも疲れて將士はそれぞれ座って休み、また起きて戦った。そのとき突然東北の風が強く吹き、砂塵が天を覆った。燕兵は風に乗じて大声を上げ、左右から横撃した。庸は大敗して徳州へ逃げ帰り、以後は気勢が沮喪した。
- まもなく燕將の李遠が沛縣で兵糧船を焼き、庸軍は糧食に窮した。
長江の敗と最期
- 翌年、靈壁の戦いに敗れて平安らが捕らえられると、庸だけが軍を率いて南下し、淮水の南岸に戦艦を並べた。燕將の邱福らがひそかに渡って庸の背後に出たので、庸は支えきれず、退いて長江を守る策をとった。
- 燕兵は淮を渡り、盱眙を経て揚州を陥れた。庸は六合および浦子口で防戦したが、いずれも利あらず、都督の陳瑄が舟師を率いて燕に降ったので、燕兵はついに長江を渡った。庸は慌てて海船を集め、髙資港を出て迎え撃ったが、また敗れ、軍はいっそう崩れ散った。
- 成祖が京師に入ると、庸は残兵を率いて降り、そのまま淮安の鎮守を命じられた。まもなく勅を賜って言われた。「近ごろ山東が定まらぬので卿に淮安鎮守を命じた。今、鐵鉉は捕らえられ諸郡はすべて平定した。朕は山東が久しく兵乱に苦しみ輸送に疲れているのを思う。卿は兵を整え民を養い、朕の意に副うようにせよ」と。
- 永樂元年(1403年)に致仕した。ほどなく千戸の王欽が庸の罪状を訴え出て、欽はただちに指揮同知に進められた。そこで都御史の陳瑛が、庸は怨みを抱いて異図があると弾劾し、庸は自殺した。