髙賢寜
- 髙賢寜は濟陽の儒學生。教諭の王省に学び、節義をもって互いに磨き合った。建文年間に貢生として太學に入った。
- 燕兵が徳州を破って濟南を囲んだとき、賢寜はたまたま囲みの中にいて京へ赴けなかった。
- 当時、燕兵の勢いは盛んで、黄子澄らは使者を遣わして和を議し、その勢いを鈍らせようと謀った。尚寳司丞の李得成が意気高く自ら行くことを願い出て、城下で燕王に会ったが、王は聴き入れず、囲みはいっそう急になった。參政の鐵鉉らはあらゆる手を尽くして防いだ。
- 王が城中に矢文を射て降伏を諭すと、賢寜は「周公輔成王論」を作って城外に射返した。王はその言を喜び、そのために攻撃を緩め、対峙すること二か月、ついに囲みを解いて去った。
- 燕王が即位したのち、賢寜は捕らえられて謁見した。成祖は「これがあの論を書いた秀才か。秀才は好い人物だ。官を一つ与えよう」と言った。賢寜は固辞した。
- 錦衣衛指揮の紀綱は、もと素行が悪くて学校を追われた生員で、平素から賢寜と親しかったので、就職するよう勧めた。賢寜は「君は学校に棄てられたのだからそれもよかろう。私は年久しく官の廩米を食んだ身であり、義として受けられぬ。それに王先生の教えを受けた者だ」と言った。綱が帝に言上したので、ついに帰郷を許された。年九十七で没した。