沛縣知縣
- 顔伯瑋は名を瓌といい、字の方で通っていた。廬陵の人。唐の魯國公顔真卿の後裔である。
- 建文元年(1399年)に賢良として徴され、沛縣知縣に任じられた。李景隆が徳州に屯し、沛の人々は一年中輸送に駆り出されたが、伯瑋がうまく計画を立てたので困窮せずに済んだ。
- 豐沛軍民指揮司が設けられると、民兵五千人を集め、七つの堡を築いて防備の計とした。まもなくその兵は山東に回されて増援に充てられ、残ったのは疲弱で戦に耐えない者ばかりだった。
沛の陥落と一族の死
- 燕兵が沛を攻めると、伯瑋は縣丞の胡先を密かに徐州へ遣わして急を告げさせたが、援軍は来なかった。そこで弟の珏と子の有為に、家に帰って父に仕えるよう命じ、役所の壁に詩を題して必死の覚悟を誓った。
- 燕兵が夜に東門から入り、指揮の王顯が迎えて降った。伯瑋は冠帯を整えて堂に上り、南に向かって拝し、自ら首を吊って死んだ。有為は立ち去るに忍びず引き返して父の屍を見、その傍らで自刎した。
- 主簿の唐子清、典史の黄謙はともに捕らえられた。燕將は子清を釈そうとしたが、子清は「顔公に地下までお供したい」と言って死んだ。謙は徐州へ降伏の説得に遣わされたが従わず、やはり死んだ。
向朴・鄭恕・鄭華
- 向朴は慈谿の人。学に励み親を養い、洪武の末に人材として召見され、獻縣を知した。縣に城郭がなく、燕將の譚淵が来ると朴は民兵を集めて戦い、捕らえられ、印を懐に抱いて死んだ。
- 鄭恕は仙居の人。蕭縣知縣。燕將の王聰が蕭を破ると、屈せずに死んだ。二人の娘も、婚約者に嫁ぐべきところ、ともに死んだ。
- 鄭華は臨海の人。行人から東平吏目に落とされた。燕兵が州に至ると長官も次官もみな城を棄てて逃げた。華は妻の蕭に「私は義として必ず死なねばならぬ。だがお前は年若い、どうしたものか」と言った。蕭は泣いて「あなたが国に背かないなら、私があなたに背けましょうか」と答えた。華は「それで十分だ」と言い、吏民を率いて城に拠って堅く守り、城が破られると力戦して屈せずに死んだ。