明史卷一百四十二 列傳第三十 瞿能

出自と武功

  • 瞿能は合肥の人。父の通は洪武年間に都督僉事まで累進した。能はその官を継ぎ、四川都指揮使として藍玉に従い大渡河を出て西畨を撃ち、功を立てた。
  • また副總兵として建昌の叛酋伊嚕特穆爾を討ち、雙狼寨でこれを破った。

北平攻めと白溝河の戦死

  • 燕師が起こると李景隆に従って北征し、北平を攻めた。子とともに精騎千餘を率いて張掖門を攻め、あと少しで落とすところだったが、景隆はこれを妬み、大軍と同時に進めと命じて待たせた。そこで燕の人々が夜に水を汲んで城に注ぎ、折からの厳寒で氷が張って登れなくなり、景隆はついに大敗を招いた。
  • のちまた景隆に従って白溝河に進駐し、燕師と戦った。能父子は奮戦して向かうところ敵なく、日が暮れてそれぞれ軍を収めた。
  • 翌日ふたたび戦い、燕王はあやうく討ち取られるところだったが、王は急ぎ後軍を招く振りをして敵を疑わせ、逃れることができた。夕暮れ近く、能はまた兵を引いて激しく戦い、大声で「燕を滅ぼせ」と叫び、数百の首級を挙げた。諸將の俞通淵・滕聚もまた兵を率いて合流した。
  • そのとき旋風が起こり、王が突入して馬を駆って撃ちかかった。能父子は陣中で死に、通淵・聚もともに死に、精兵萬餘も皆没した。南軍はこれによって振るわなくなった。

莊得・楚智・皂旗張・王指揮

  • 当時、北兵と戦って死んだ者に都指揮の莊得・楚智・皂旗張らがいる。
  • 得はもと宋忠の配下で、懐來の敗戦のときその一軍だけが無傷だった。のち盛庸に従って夾河で戦い、燕將の譚淵を斬った。まもなく燕王が驍騎で夕暮れに乗じて襲い、得は力戦して死んだ。
  • 智はかつて馮勝・藍玉に従って塞外に出て功があり、建文の初めに北平を守り、まもなく召し還された。燕討伐では兵を率いて景隆に従い、そのつど奮い立って戦い、北の人々は智の旗を見ただけで足がすくんだ。この戦いで馬が倒れて捕らえられ、死んだ。
  • 皂旗張は名が伝わらない。一説に張能というともいう。千斤を引く力があり、戦うたびに黒い旗を振って先駆けしたので、軍中で皂旗張と呼ばれた。死ぬときも旗を握ったまま倒れなかった。
  • また王指揮という者は臨淮の人。いつも小さな馬に乗っていたので軍中で小馬王と呼ばれた。白溝河で重傷を負い、兜を脱いで従僕に渡し、「私は国のために身を捧げる。これを家人への報せとせよ」と言い、馬上に立ったまま戈を突き立てて死んだ。この二人の死にざまはとりわけ異例だという。

楊本

  • 中牟の楊本は、はじめ太學生で、禽遁の術に通じていた。募集に応じて錦衣鎮撫に任じられ、景隆に従って燕を討ち功があったが、景隆はこれを妬んで上聞しなかった。
  • まもなく本は景隆が軍を失い国を辱めたと弾劾し、そのために孤軍で単独に出て捕らえられ、北平の獄につながれ、のちに殺された。