出自と洪武年間
- 宋忠は出身が分からない。洪武の末に錦衣衛指揮使となった。罪もないのに死罪とされた百戸があり、忠が上疏して救った。御史が忠を弾劾したが、太祖は「忠は率直で隠し立てをしない。人のために命乞いをして何の罪があろう」と言い、百戸を赦した。
- まもなく僉都御史の劉觀に弾劾されて鳯陽中衛指揮使に移された。三十年(1397年)、平羌將軍の齊譲が西南夷を征討して功がなかったとき、忠は參將として將軍楊文に従って討伐し、軍が還ると錦衣の官に復した。
懐来の敗死
- 建文元年(1399年)、都督として勅を奉じて辺兵三萬を統べ、開平に屯し、燕府䕶衛の壮士をことごとく選び出して従わせた。また都督の徐凱が臨清に、耿瓛が山海關に屯して北平と掎角の勢をなした。
- 北平にはもと永清左右衛があり、忠はその左衛を彰徳に、右衛を順徳に移して燕に備えた。
- 張昺・謝貴が燕王を捕らえようと謀ると、忠も兵を率いて北平へ向かったが、到着しないうちに燕兵が起こり、居庸が失われて進めず、退いて懐來を保った。
- 燕王は忠が必ず居庸を争うと読み、精兵八千を率い、甲を巻いて強行軍で懐來に向かった。
- このとき北平の將士が忠の配下にいた。忠は彼らに、家族はみな燕に殺されたのだから努力して仇を報い国恩に報いよ、と告げた。燕王はこれを探知し、急ぎその家族に古い旗を掲げさせて前鋒とし、父兄子弟が互いに呼び交わして安否を尋ね合った。將士は皆喜んで「我が家は無事だったのだ。宋總兵は我らを欺いた」と言い、戦意を失った。
- 忠は慌てて陣を敷いたが整わないうちに、燕王が一振りの合図で河を渡り、鬨の声を上げて進んだ。忠は敗れて死んだ。
余瑱・彭聚・孫泰
- 忠が懐來を守ったとき、都指揮の余瑱・彭聚・孫泰が同行していた。戦いになると瑱は捕らえられて屈せずに死に、泰は流れ矢に当たり血が甲を染めたが傷を包んで力戦し、聚とともに陣中で没した。
- このとき燕に捕らえられた將校は百餘人に及んだが、みな降伏を拒んで死んだ。惜しいことに姓名の多くは伝わらない。