北平の守臣
- 張昺は澤州の人。洪武年間に人材登用で工部右侍郎まで累進した。謝貴は出自が分からないが、河南衛指揮僉事などを歴任した。
- 建文の初め、廷臣が燕の力を削ぐため守臣を置き換えることを議し、昺を北平布政使、貴を都指揮使とし、ともに密命を受けさせた。
- 当時、燕王は病と称して長く外に出なかった。二人はきっと変事があると見て、在城の七衛と屯田軍士を配し、九門に列して防備を固め、王を捕らえようとした。
- 昺の庫吏の李友直がその計画を予め知り、密かに王に告げたため、王は備えることができた。
誅殺と九門の争奪
- 建文元年(1399年)七月六日、朝廷は人を遣わして燕府の官校を逮捕させた。王は偽って官校を縛り、庭中に据えて使者に引き渡すと見せかけ、昺と貴を欺いて招き入れた。端禮門に至ったところで伏兵に捕らえられ、二人とも屈せずに死んだ。
- 燕將の張玉・朱能らが勇士を率いて九門を攻め、そのうち八門を落としたが、西直門だけは落ちなかった。都指揮の彭二が馬を躍らせて市中で「燕王が反した。私に従って賊を殺す者には賞を与える」と叫び、千餘人を集めて燕府を攻めようとした。折しも燕の健士が府中から出て二を斬り殺し、兵はそのまま散り、九門はすべて奪われた。
- はじめ昺が殺されたとき遺骸は返されたが、燕王が即位すると昺の屍を掘り出して焼き、家人と近親はみな死んだ。
葛誠
- 葛誠は出仕の経緯が分からない。洪武の末に燕府長史となった。
- 王の命で京師に上奏したとき、帝が召見して府中のことを問い、誠はありのままに答えて帰された。
- 王は病を装い、盛夏に炉を抱えて座り「寒くてたまらぬ」と言った。昺・貴らが見舞いに入ると、誠は王が実は病でなく変を起こそうとしていると告げ、さらに密奏して帝に知らせた。
- 昺・貴が王を図ろうとしたとき、誠は䕶衛指揮の盧振と内応を約束した。事が敗れると誠と振はともに殺され、一族も皆殺しにされた。
余逢辰・杜竒
- 伴讀の余逢辰は字を彦章、宣城の人。学識と徳行があり、王に信任されていたため、異図を知ることができた。折を見て強く諫め、変が起こると察すると子に手紙を残して必死の覚悟を誓った。兵が起こるとふたたび泣いて諫め、君と父のどちらにも背けないと言って死んだ。
- 北平の人の杜竒は才の秀でた士だった。燕王が挙兵して府に召すと、竒は臣たる節を守るよう極諫した。王は怒ってただちに斬った。