明史卷一百三十九 列傳第二十七 王朴

直諫して刑死する

  • 王朴は同州の人。洪武十八年(1385年)の進士。もとの名は權であったが、帝が改めさせた。
  • 吏科給事中に任じられたが、直諫が旨に逆らって罷免され、まもなく御史に起用された。時事を陳べること千余言。性格は骨太で率直、しばしば帝と是非を論じ合って屈しなかった。
  • ある日、事について強く争ったので帝は怒って処刑を命じた。市に至ったところで召し戻して「そなたは改めるか」と諭した。朴は「陛下は臣を不肖としないで御史に抜擢されたのに、なぜこれほど辱められるのか。臣に罪がないのなら殺すべきではなく、罪があるならまた生かす必要もない。臣は今日、速やかに死にたいだけです」と答えた。
  • 帝は大いに怒って刑の執行を急がせた。史館の前を通るとき、朴は大声で「学士劉三吾よ、記せ。某年某月某日、皇帝が無実の御史朴を殺したと」と叫んだ。ついに殺された。
  • 帝は『大誥』を撰したとき、朴を誹謗の者としつつも、なおその名を挙げている。

張衡(王朴に附す)

  • 張衡という者があった。萬安の人で、朴と同年の進士。禮科給事中に任じられ、上疏が切実だったので禮部侍郎に抜擢された。清廉謹直として褒められ、そのことが『大誥』に載っている。のちにやはり言事に坐して死んだ。

史論

  • 賛にいう。太祖は英武で威断があり、廷臣は奏対でしばしば言葉を誤ったが、錢唐・韓宜可・李任魯らは素朴な誠意を抱いて朝廷で力を尽くして諫争した。古の遺した直臣というべきである。
  • 葉伯巨と周敬心は一介の書生の身で天下の大計を論じた。信任を得てから諫めるという義には背いたが、その本心は忠愛から出たもので、末世の名を売り直言を売り物にする輩とは同日に論じられない。