明史卷一百三十九 列傳第二十七 周敬心

暦数の詔に応じて極諫する

  • 周敬心は山東の人で、太學生である。洪武二十五年(1392年)、暦数に明るい者を求める詔が下ると、敬心は上疏して極諫し、あわせて時政の数事に及んだ。その大要は次のとおり。
  • 国運の長短は徳の厚薄によるのであって暦数によるのではない。三代は言うまでもなく、三代以後で最も長いのは漢・唐・宋、最も短いのは秦・隋・五代である。長いのは有道だからであり、短いのは無道だからである。
  • 陛下は天命に応じて乱を救い暴を誅されたが、神武と威断は十分でも、寛大と忠厚は不足している。両漢の寛大、唐宋の忠厚に倣い、三代が有道で長く続いたゆえんを講じられれば、帝王の命脈は万世に伝えられよう。なぜ小道の徒に問う必要があろうか。
  • また聞くところでは、陛下が連年遠征し北の沙漠に出られるのは、伝国の璽を得ていないことを恥じてのことという。しかし璽の由来はこうである。昔、楚の平王のとき卞和の玉を琢き、秦に至ってはじめて璽と称された。歴代受け継がれて後唐に至ったが、治乱興廃はこの石にはよらない。石敬瑭が乱を起こし、潞王が璽を携えて焼身したのだから、秦の璽はすでに毀れている。敬瑭は洛に入って玉であらためて作り、晉が滅ぶと遼に入り、遼が滅ぶと桑乾河に遺され、元の世祖のときに扎拉爾という者が漁をして拾い上げた。いま元人が持っているのは石氏の璽にすぎない。
  • 昔、三代には璽というものがなく、仁が璽であった。だから「聖人の大宝を位といい、位を守るものを仁という」と言うのである。陛下はどうして天下という大きな璽をおろそかにして、漢・唐・宋の小さな璽を求められるのか。
  • いま力役は煩わしきに過ぎ、賦斂は厚きに過ぎ、教化が広く及んでも民は喜ばず、法度が厳しくても民は従わない。昔、汲黯は武帝に「陛下は内に欲が多くて外に仁義を施される。どうして唐虞の治に倣えましょうか」と言った。
  • いま国は富むことを願い、兵は強いことを願い、城池は高く深いことを願い、宮室は壮麗であることを願い、土地は広いことを願い、人民は多いことを願う。そこで軍卒を多く取り、資財を広く集め、征伐はやまず、営造は際限がない。これでどうして治まろうか。
  • また、洪武四年(1371年)に天下の官吏を取り調べ、洪武十三年(1380年)に胡党として連坐させ、洪武十九年(1386年)に長年民間にあった官吏を逮え、洪武二十三年(1390年)に妄言の者を罪した。大量の殺戮が官民の別なく及び、善悪を分かたなかった。そのなかに忠臣烈士・善人君子がいなかったはずがあろうか。ここに陛下が徳を薄くし刑に頼っておられることが見える。水害と旱害が連年続くのに、どうして理由がないことがあろうか。
  • 言はいずれも激しく痛切であったが、聞き置かれるにとどまった。