明史卷一百三十八 列傳第二十六 開濟

刑部尚書としての行政整理

  • 開濟は字を来學といい、洛陽の人。元末に察罕特穆爾の掌書記を務めた。洪武の初め、明経に挙げられて河南府訓導に任じられ、入って國子助教となったが、病で罷めて帰郷した。
  • 洪武十五年(1382年)七月、御史大夫の安然が濟に吏治の才があると推薦した。召されて試刑部尚書となり、一年余りで正式に任じられた。
  • 濟は総括と検証を自らの任とし、天下の諸司に文簿を設けて日々行った事を記して得失を評定すること、各部の勘合文書の往復に期限を立てて功罪を定めることを請うた。また軍民が些細な事で罪を犯した場合は即決すべきだと言った。数か月の間に滞っていた案件が一掃され、帝は大いに有能と認めた。
  • 都御史の趙仁が、これまで賢良方正・孝弟力田などの科で採用して郡縣に配した士の多くが職務を果たしていないので、去就を査定すべきだと言った。濟は条議して、経義に明るく行いの修まった者を一科、文詞に習熟した者を一科、書義に通暁した者を一科、人品の俊秀な者を一科、統治に練達した者を一科、言に条理ある者を一科とし、六科を備えた者を上、三科以上を中、三科に満たない者を下とすることを提案し、採用された。
  • 濟は明敏で弁才があり、国家の経制・田賦・獄訟・工役・河渠の事で誰も裁定できないものも、濟がひとたび算段すれば条理が立ち、後世の規範となりうる形式になった。それゆえ帝の信任が厚く、たびたび諮問に応じ、他部の事も兼ねて関与したため、人に憎まれ、謗る議論が起こった。

峻酷ぶりと失脚

  • しかし濟は苛刻でもあり、法を用いて人を陥れることを好んだ。
  • 詐偽律を定めるよう命じられたとき、濟が精緻を極めた法を議すると、帝は「密な網を張って民を捕らえてよいものか」と言った。
  • また「寅戌の書」と称する帳簿を設けて僚属の出退勤を計ろうとしたところ、帝は厳しく責めて「古の人は卯と酉を常とした。いま職務に就く者を朝は寅、暮は戌まで縛っては、父母に仕え妻子と会う時間がどれほどあるというのか」と言った。
  • さらに僚属を戒める掲示を作り、文華殿に掲げたいと請うと、帝は「僚属を戒める言葉を殿廷に張ろうとは、臣下の礼であろうか」と言い、濟は恥じて謝した。
  • まもなく郎中の仇衍に囚人を逃がさせて死なせたことが獄官に発覚すると、濟は侍郎の王希哲・主事の王叔徴とともにその獄官を捕らえて殺した。
  • その年の十二月、御史の陶垕仲らがこの事を摘発した。あわせて、濟は奏事のとき奏劄を懐に入れたまま隠して言わずにおき、上意をうかがって両様に構え、奸狡で底が知れないこと、甥の娘を婢として使役し、早くに寡婦となった妹については姑を追い出して家財を掠め取ったことを挙げた。帝は怒って濟を獄に下し、王希哲・仇衍らとともにみな棄市とした。

史論

  • 賛にいう。六部の制は『周官』に倣ったもので、王を補佐して邦国を治め諸事の功を興すための、きわめて重い任である。
  • 明が興ると官を建てて職を分かち、立法は整然としており、さらに三途によって人を用いて広く賢者を求めた。
  • 陳修・滕毅の銓法の整備、楊思義・范敏の賦役の処理、周楨の律令制定、單安仁の將作統括、さらに沈溍・開濟らの立案に至るまで、いずれも細やかに行き届いて大小を漏らさなかった。その規模を考えれば、まことに一代の政治の出発点というべきであろう。