明史卷一百三十八 列傳第二十六 唐鐸

太祖の挙兵以来の側近

  • 唐鐸は字を振之といい、虹の人。太祖が挙兵した当初から左右に侍り、濠州を守り、江州の平定に従い、西安縣丞に任じられ、中書省管勾に召された。
  • 洪武元年(1368年)、湯和が延平を落とすと、鐸に知府の事を任せた。新たに帰属した士民を撫し集め、みな安んじた。三年在任して入り、殿中侍御史となり、再び出て紹興知府となった。
  • 洪武六年(1373年)十二月、召されて刑部尚書を拝し、翌年に太常卿に改められた。母の喪に服し、特に半俸を給された。洪武十四年(1381年)に服喪を終えて兵部尚書に起用された。

諫議大夫としての言

  • 翌年、はじめて諫院が置かれると、諫議大夫となった。
  • 帝がかつて侍臣と歴代の興廃を論じ、「朕の子孫が成王・康王のようであり、輔弼が周公・召公のようであれば、天の永命を祈ることができよう」と言った。鐸は進んで「あらかじめ世継ぎを教育し、左右に補導の任を選ぶことこそ、宗社万年の福です」と述べた。
  • 帝はまた鐸に「人には公私があるから言に邪正がある。正しい言は規諫に努め、邪な言は謗りと諂いに努める」と言った。鐸は「謗りは忠に近く、諂いは愛に近い。惑わされなければ讒佞は自ずと遠ざかります」と答えた。
  • まもなく監察御史に左遷された。賢能な京官を選んで郡縣を巡らせ、賢才を訪ね求め官吏を査察すること、経験を積んだ老成で人望の高い者を布政・按察の職に就けることを請い、帝はこれに従った。
  • のち右副都御史に抜擢され、刑部・兵部の二部の尚書を歴任した。

詹事・龍州の招諭

  • 洪武二十二年(1389年)、詹事院が置かれると、帝は吏部に「太子を輔導するには端重の士を選ばねばならぬ。三代の保傅は礼がきわめて尊厳であった。兵部尚書の鐸は謹厚で徳量がある」と命じ、詹事とし、尚書の俸を従来どおり給した。鐸がかつて予め教育することを請うたからである。その年に致仕した。
  • 洪武二十六年(1393年)、太子賓客に起用され、太子少保に進んだ。
  • 洪武二十八年(1395年)、龍州の土官趙宗壽が鄭國公常茂の死を事実と違えて奏したかどで召されたのに参上しなかった。帝は怒って楊文に大軍を率いて討たせ、鐸には招諭を命じた。鐸が現地に至って調べると、常茂は実際に病死しており、宗壽も罪に服して来朝した。そこで詔して楊文の軍を移して奉議など諸州の叛いた蛮を征させ、鐸を参議軍事とした。一か月余りで諸蛮は平らいだ。
  • 鐸は形勢を検討して、奉議衛および向武・河池・懷集・武仙・賀縣の諸所に守禦千戸所を設け、官軍を置いて鎮守させるよう請い、いずれも許可された。

人となりと最期

  • 鐸は長者の人柄で、性格は慎み深く、みだりに物を取らず与えなかった。帝は旧知として遇し、「鐸は友の間柄から臣となって今日まで三十余年、人と交わって顔色を変えることがなく、絶交しても悪口を言わない」と言った。
  • また「都御史の詹徽は剛毅果断で悪を憎み、胥吏はその貪欲を思うままにできぬ。それゆえ謗りが朝中に満ちている。唐鐸は重厚だが、これを臆病で無為と言う者もいる。人心が古のようでないとはこのことか」と言った。
  • のち詹徽は罪に坐して誅殺されたが、鐸への恩遇は変わらなかった。二十年七月(三十年七月の誤りか)、京師で没した。享年六十九。賻贈は手厚く、有司に命じて喪を護送し帰葬させた。

沈溍(唐鐸に附す)

  • 沈溍は字を尚賢といい、錢塘の人。鐸と同じく兵部に仕え、明敏をもって称された。
  • 帝は勲臣の子弟の多くが法を曲げるので、『大誥』二十二篇を撰して天下の武臣に諭し、みな誦習させて戒めを知らせた。さらに諭戒を条文に入れて将士に頒示した。
  • 当時、溍は試兵部侍郎として部の事務を掌り、一切の訓戒の事は旨を承けて行った。まもなく尚書に進んだ。
  • 廣西都司の譙楼建設と青州衛の軍器製造がいずれも民の財を勝手に取り立てていたので、溍は、都司・衛所の営作は必ず都督府が奏して裁可を得、官が物料を給し、勝手に民を使役してはならず、違反者は罪に問うこと、あわせて武臣が民政に関与することを禁ずるよう請うた。
  • 当時は戦乱が収まったばかりで武臣が横暴で、しばしば文法を犯していたが、これによってはじめて抑えられた。溍の力である。
  • 帝がかつて、政を致す要は賢を進め不肖を退けることにあると諭した。溍は「君子は常に少なく小人は常に多い。上に立つ者が励ますかどうかです。賢者が挙げられれば不仁の者は遠ざかります」と述べ、帝はその言を善しとした。
  • 洪武二十三年(1390年)、溍と工部尚書の秦逵とが官を交換し、誥を賜って称揚された。まもなく旧任に復し、のち事に坐して免ぜられた。
  • 明初の衛所の世籍と軍卒の勾補の法はいずれも溍の定めたものである。しかし名目が細かく簿籍が煩瑣で、吏が不正を働きやすく、明代を通じてかなりの民の害となり、軍衛も日々消耗した。詳しくは兵志に記す。
  • 潮州の生員陳質は、父が戍籍にあって没したため勾補の対象となり、学業を終えたいと帰郷を請うた。帝はその籍を除くよう命じたが、溍は軍伍が欠けるとして反対した。帝は「国家が一兵卒を得るのはたやすいが、一人の士を得るのは難しい」と言い、ついに籍を除いた。ただしこれらはいずれも特別の恩であるという。