明史卷一百三十七 列傳第二十五 李叔正

地方の治と太学の教育

  • 李叔正は字を克正といい、はじめの名を宗頤といった。靖安の人。十二歳で詩を作ることができ、長じてはますます博学となった。当時、江西には十才子がおり、叔正はその一人である。
  • 推薦されて國子學正を授けられた。洪武の初めに帰郷を願い出たが、まもなくまた推薦されて學正となり、渭南丞に遷った。
  • 同州と蒲城の人が土地の境を争って何年も決着しなかったが、行省が叔正に委ねると、単騎で赴いて数語で断じてただちに解決した。
  • 渭南は毎年二万の糧を納めるが、豪族と狡猾な吏が結託して田に定額がなかった。叔正は畝を巡って丈量し、法を立てることが精密で、諸弊をことごとく取り除いた。
  • 興化知縣に遷り、まもなく召されて禮部員外郎となった。老齢を理由に帰郷を乞うたが許されず、國子助教に改まった。これで叔正は三度太学に至ったことになる。
  • 帝はちょうど文治に熱心で、国学の人材にはとりわけ意を用いていたが、諸生の多くは貴族の子弟で教えに従わなかった。叔正は厳しく規条を立て、朝夕端座して課業を督し、倦む様子がなかった。朝廷の評は賢とし、監察御史に抜擢された。
  • 命を奉じて嶺表を巡ったとき、瓊州府の吏がその太守を、公座に踞して表文に署名したと訴え出た。叔正が取り調べると太守の潔白が明らかとなり、吏を罪に処した。太祖は嘉して「人は老いた御史は気弱だと言うが、これほど明察に断ずるのか」と言った。
  • 官を重ねて禮部侍郎となり、十四年(1381年)に尚書に進み、在官のまま卒した。
  • 叔正の妻の夏氏は、陳友諒が南昌を陥れたとき井に投じて死んだ。叔正はその義に感じて、終身ふたたび娶らなかった。