渡江以来の文臣
- 楊元杲と阮𢎞道はともに滁州の人で、家は代々儒者であった。渡江に従い、ともに行省左右司員外郎となり、陶安らと交替で軍機の文書を掌った。
- 元杲は郎中として金華で軍儲を管理するよう抜擢され、𢎞道もまた同じ年に郎中として大都督朱文正に従って南昌を守り、ともに功があった。
- 二人はともに太祖と最も古くからの関係にあり、また儒雅で文学を好み、政治の体を熟知していた。なかでも元杲は思慮がとりわけ周到であった。
- 帝はかつて「文臣で渡江に従い、簿書と文字を掌って十余年勤労した者に、楊元杲・阮𢎞道・李夢庚・侯元善・樊景昭に及ぶ者はない」と言った。
- のち元杲は應天府尹を歴任し、𢎞道は福建・江西の行省參政を歴任して、ともに在官のまま卒した。
- 元杲の子の楊賁は博学で記憶に強く、詞と書で名を知られた。推薦されて大名知縣を授けられ、官は周府紀善に至った。
- 侯元善は全椒の人で、官を歴任して參知政事に至った。彼と樊景昭はともに表立った事跡が伝わらない。
汪河――庫庫のもとに抑留される
- また汪河という者は舒城の人。かつて余闕に学び、文章で名を知られた。渡江に従って行中書省掾となり、たびたび時務を述べた。太祖はその才を高く買い、大都督府都事に進めた。察罕への使者となって議論が上意にかなった。
- のち命を奉じて錢楨とともに河南に赴き庫庫に返報したところ、抑留された。太祖は前後七度にわたり庫庫に書を送ったが、ついに返報はなかった。
- 洪武元年(1368年)、大軍が河洛を下し、庫庫が定西に走って、河はようやく帰ることができた。抑留は合わせて六年に及んだ。帝はたいへんこれを嘉して吏部侍郎に進め、河は西征の方略をつぶさに述べた。
- 二年(1369年)、御史台侍御史に改まり、九年(1376年)、晉王左相を拝した。帝は自ら便殿に出て諭して遣わした。数年在って在官のまま卒した。