広東沿海の防備
- 花荗は巢縣の人。はじめ陳額森に従い、のち帰順した。江左平定、陳友諒討滅、中原・山西・陝西の平定に従って功を積み、武昌衞副千戸を授けられた。
- 西の蜀を征して瞿唐闗を克ち、重慶に入り、左右の兩江および田州を下して、神䇿衞指揮僉事に進んだ。
- 廣州左衞に移り、陽春・清遠・英徳・翁源・博羅の諸山寨の叛蛮、および東莞・龍川の諸縣の乱民を平定して指揮同知に進んだ。電白・歸善の賊を平定して、二度遷って都指揮同知となり、世襲の指揮使を得た。たびたび連州や廣西・湖廣の諸猺賊を討伐した。
- 上言して次のように述べた。廣東の南辺は大海で、姦悪の徒が出没する。東莞・筍岡の諸縣では逃亡した蜑戸が海島に住みつき、官軍に会えば漁をしていると偽り、番賊に会えばともに寇盗を働く。落ち着かず神出鬼没で取り調べが難しいので、いっそ兵籍に編入すれば統制しやすい、と。
- さらに、沿海の山に依った広海・碣石・神電など二十四の衞所を設け、城を築き池を浚え、海島に隠れ住む無籍の者を集めて軍とし、なお山海の要害の地に堡を立てて屯田の軍を置き、不測に備えることを請うた。いずれも許可された。
- 都指揮使に進み、久しくして卒し、安徳門に葬るよう賜わった。長子の花榮が職を襲い、次子の花英は果敢で父の風があり、やはり軍功で廣東都指揮使となって永樂年間に名を知られた。