出自と嶺南平定
- 陸仲亨は濠の人。太祖に帰し、滁州征討に従って大栁樹の諸寨を取り、和陽を陥とし、元兵を撃破して青山の群盗を追った。
- 渡江に従って太平を取り、集慶を平定し、徐達に従って諸郡県を落とし、左翼統軍元帥を授かった。
- 陳友諒征討に従って功が多く、驃騎衛指揮使に進んだ。常遇春に従って贛州を討ち、熊天瑞を降し、贛州衛指揮使として嶺南北の新附の諸郡を節制した。兵を動かして梅州・會昌・湘鄉を陥とし、諸山寨をことごとく平らげた。
- 洪武元年(1368年)、衛軍を率いて廖永忠らとともに廣東を征し、諸郡県を平定した。永忠と廣州で合流し、元の将・盧左丞を降して廣東は平定された。美東衛指揮使に改められ、江西行省平章に抜擢され、鄧愈に代わって襄陽を鎮め、同知都督府事に改められた。
封侯と誅死
- 洪武三年(1370年)冬、吉安侯に封じられ、祿千五百石、世劵を賜った。唐勝宗とともに事に坐して指揮使に降されたが、雁門で賊を捕らえてともに爵位を回復した。
- 洪武十二年(1379年)、周徳興・黄彬らとともに湯和に従って臨清で練兵した。まもなく軍中で三人が逮えられて京に送られたが、やがて釈された。成都に移鎮し、巨津州の叛蠻を平らげ、烏撒の諸蠻が再び叛くと傅友徳に従ってこれを討ち平らげた。
- 洪武二十三年(1390年)、胡惟庸の党を糾明した際、家奴の彭特穆爾が、仲亨は勝宗・費聚・趙庸とともに通謀していたと告発した。獄に下されて訊問し供述が整うと、帝は「私はつねづね、あの者が高位にありながら憂え顔なのを怪しんでいた」と言い、仲亨を誅して家を没収した。
- はじめ仲亨は十七歳のとき乱兵に掠われ、父母兄弟をみな失い、麦一升を持って草の間に伏していた。帝がこれを見て「来い」と呼び、そのまま征伐に従って侯に封じられるに至った。帝はかつて「これは私の挙兵当初の腹心・股肱である」と言ったが、結局は誅せられて死んだ。