出自と江を渡ってからの戦功
- 顧時は字を時舉といい、濠の人。気概があって型にはまらず、奇抜な計略を好んだ。太祖に従って長江を渡り、功を積んで百夫長から元帥に取り立てられた。
- 安慶・南昌・廬州・泰州を攻め取り、天䇿衛指揮同知に昇進した。
- 李濟が濠州に拠ったとき、平章の韓政に従ってこれを討ち、降伏させた。
- 張士誠を攻めて昇山水寨に迫ったとき、小舟を出して敵の船団のまわりを漕ぎ回らせた。敵は船上から見下ろして笑い、油断した。顧時はその隙をつき、壮士数人を率いて大声をあげて敵船に飛び込み、敵中は大混乱に陥った。残りの味方の船も競って攻め入った。
- 五太子が救援に来たが、薛顯がまたこれを破り、五太子らは降伏した。そのまま大將軍に従って呉(張士誠)を平定し、軍を返して山東を取った。
洪武以後の北征と晩年
- 洪武元年(1368年)、大都督府副使に任じられ、同知率府事を兼ねた。大將軍に従って河南・河北を平定し、水門を浚って舟師の通行路を開き、臨清から通州に至って元の都を落とした。諸将と分かれて古北の諸隘口を巡邏した。
- 大軍に従って平陽を取り、崞州を陥として、逃亡していた将の王信ら四十六人を捕らえた。蘭州を取り、慶陽を包囲した。張良臣が城下で兵を誇示したのでこれを撃ち破り、その精鋭の将九人を捕らえた。良臣はそれ以後あえて城を出なくなった。
- 慶陽が平定され徐達が都に還ると、顧時は騎兵を率いて静寧州を攻略するよう命じられ、賀宗哲を追い払って西辺はすべて平定された。
- 洪武三年(1370年)、大都督同知に進み、濟寧侯に封じられ、祿千五百石、世劵を賜った。
- 洪武四年(1371年)、左副將軍として傅友徳の副となり、河南・陝西の歩騎を率いて蜀を伐った。興元から進んで階州・文州を陥とし、蜀兵を漢川に破り、そのまま成都を陥とした。
- 翌年、李文忠の副として北征し、道を分けて沙漠に入ったが道に迷い、兵糧も尽きかけたところで敵に遭遇した。兵は疲れて戦えなかったが、顧時は麾下数百人を率いて馬を躍らせて突撃し、敵は退いた。その輜重・糧食・家畜を獲て帰り、軍の名声は大いに揚がった。
- 洪武六年(1373年)、徐達に従って北平を鎮守し、翌年召還された。洪武八年(1375年)に再び出て鎮守した。
- 洪武十二年(1379年)に卒去、四十六歳。鍾山に葬られ、滕國公を追封され、諡は襄靖。功臣廟に合祀された。
- 顧時は寡兵で大軍を撃つことができ、沈着で猛々しくありながら手柄を誇らなかったので、帝はたいへん重んじた。
- 子の顧敬は金吾衛鎮撫。洪武十五年(1382年)に侯を嗣ぎ、左副將軍として龍泉の山賊を平定した功があった。洪武二十三年(1390年)、胡惟庸の党を追論した際、掲示された諸臣の筆頭が顧時であったため、敬は連坐して死に、爵位は除かれた。