嶺南の保全
- 何眞は字を邦佐といい、東莞の人。若くして英偉、書と剣を好んだ。元の至正の初め、河源縣務副使となり、淡水場管勾に転じたが、官を棄てて帰った。
- 元末に盗賊が起こると、眞は衆を集めて郷里を守った。至正十四年(1354年)、県の人の王成と陳仲玉が乱を起こしたので、眞は元帥府に訴え出たが、元帥は賄賂を受けて逆に眞を捕えようとした。眞は逃れて坭岡に居り、兵を挙げて成を攻めたが克てなかった。
- 久しくして惠州の人の王仲剛が叛将の黄常とともに惠州に拠ると、眞は常を撃退し仲剛を殺した。功により惠陽路同知・廣東都元帥を授けられて惠州を守った。
- 海賊の趙宗愚が廣州を陥れると、眞は兵をもって撃退してその城を回復し、廣東分省參政に抜擢され、まもなく右丞に進んだ。
- 贛州の熊天瑞が数万の舟師を率いて眞を図ろうとすると、眞は胥江に迎え撃った。大雷雨が天瑞の舟の帆柱を折り、これを撃退した。廣州の人々はこれによって無事であった。
- これより先、眞はふたたび王成を攻めて陳仲玉を誅していたが、成はなお固く守っていた。至正二十六年(1366年)、ふたたび成を囲み、成を捕えた者に鈔十千を与えると募った。成の奴が成を縛って出てくると、眞は鈔を与え、そのうえで湯鑊を用意させて奴を烹ようとし、衆に向かって叫んで「奴で主に叛く者は、これを見よ」と言った。沿海の叛いた者はみな降った。
- 当時、中原は大いに乱れ、嶺南は隔絶していた。眞に尉佗(南越の趙佗)の故事に倣うよう勧める者があったが聴かず、しばしば使者を海路から遣わして朝廷に方物を貢いだ。累進して資德大夫・行省左丞となった。
明への帰順と後半生
- 洪武元年(1368年)、太祖は廖永忠を征南將軍として舟師を率いて廣東を取らせた。永忠は福州に至って書で眞に諭し、海を渡って潮州へ向かった。
- 軍が到着すると、眞は都事の劉克佐を軍門に遣わして印章を差し出し、部下の郡県の戸口・兵・糧の帳簿を作り、表を奉じて降った。永忠が朝廷に報告すると、詔を賜って眞を褒めた。その趣旨は次のとおりである。古の豪傑で、境を保ち民を安んじて有徳の主を待った者、たとえば竇融や李勣の類は、兵を擁して険に拠り群雄の間に立ちながら、真の主でなければ屈しなかった。これは漢・唐の名臣であって、今は見られない。汝は数郡の衆を率いながら、一兵も煩わさずに境を保って帰服した。竇融・李勣にどうして劣ろうか。
- 永忠が東莞に至ると、眞は官属を率いて迎え労い、そのまま詔を奉じて入朝し、江西行省參知政事に抜擢された。
- 帝は諭して「天下が分かれ争う中で、いわゆる豪傑には三つある。乱を治に変える者が上、民を保ち変化に通じて帰すべき所を知る者がその次、険を恃んで一時をしのぎ身を死なせても悔いぬ者、これが下である。卿は誠を輸して土地を納め、逆らわなかった。時務を識る者と言ってよい」と言った。眞は頓首して謝した。
- 官にあってかなり声望があり、とりわけ儒術を好み、書を読んで文を綴った。のち山東參政に転じた。
- 洪武四年(1371年)、廣東に還って旧兵を集めるよう命じられ、事が終わるとなお山東に臨んだ。洪武九年(1376年)に致仕した。
- 大軍が雲南を征するにあたり、眞にその子の兵馬指揮の何貴とともに赴いて軍糧を計画し郵駅を置くよう命じ、山西右布政使に遷った。ふたたび貴とともに廣東で兵を徴し、貴を鎮南衛指揮僉事に抜擢した。まもなく眞を浙江布政使とし、湖廣に改めた。
- 洪武二十年(1387年)、ふたたび致仕し、東莞伯に封じられ、禄千五百石を食み、世券を与えられた。
- 没して子の何榮が嗣いだが、弟の何貴および尚寶司丞の何宏とともに藍玉の党に坐して死んだ。眞の弟の何廸は禍が自分に及ぶことを疑い、乱を起こして南海の官軍三百余人を撃ち殺し、海島へ逃げ込んだ。廣東都司が兵を発して討って捕え、誅に伏した。
史論
- 贊に言う。陳友諒が太平を克ったとき、その鋒はきわめて鋭かった。康茂才がいなければ、金陵の安危はどうなっていたか分からない。
- 吳良が江陰を守り、耿炳文が長興を守ったからこそ、呉の人はその志をほしいままにできなかった。創業の基礎において、二人の力は大きい。
- 華雲龍・張赫・吳復・胡海の輩に至っては、あるいは威が辺疆に著れ、あるいは功が海運に存し、旗を抜き陣を陥れて向かうところみな打ち砕いた。前代の功臣と比べてどれほど劣ろうか。しかも皆よく禄位を保ち守り、恩礼をもって天寿を全うした。これこそとりわけ嘉美すべきことであろう。