華雲龍
- 華雲龍は定遠の人。衆を集めて韭山に居たが、太祖が兵を起こすと帰服した。滁州・和州を克つのに従い、千夫長となった。江を渡って采石の水寨および方山の営を破り、集慶路を下し、元の将を生け捕り、兵一万人を得た。鎮江を克って總管に遷り、廣德を攻め抜き、舊館に戦って湯元帥を捕え、右副元帥に進んだ。
- 龍江の役では雲龍が石灰山に伏し、接戦して損害は互角であったが、雲龍は馬を躍らせ大声で叫んでその中堅を衝き、ついに友諒の兵を大敗させ、勝ちに乗じて太平を回復した。
- 九江・南昌を下すのに従い、兵を分けて瑞州・臨江・吉安を攻め下した。安豐の救援に従い、彭蠡に戦い、武昌を平らげ、功を重ねて豹韜衛指揮使に至った。
- 徐達に従って兵を率いて高郵を取り、進んで淮安を克ち、そのまま守るよう命じられて淮安衛指揮使に改められた。まもなく嘉興を攻め、呉の将の宋興を降し、平江を囲んで胥門に軍した。
- 大軍に従って北征し、山東の郡県を下し、徐達と通州で合流して進んで元の都を克った。大都督府僉事に抜擢され、六衛の兵を統べて留守し、北平行省參知政事を兼ねた。
- 一年余りして雲州を克ち、元の平章の哈喇哈達・右丞の哈哈を獲、都督同知に進んで燕王左相を兼ねた。
- 洪武三年(1370年)冬、功を論じて淮安侯に封じられ、禄千五百石、世券を与えられた。
- 雲龍は上言して、北平の辺塞は東は永平・薊州から西は灰嶺下まで隘口が百二十一あり、その距離は二千二百里ほど、王平口から官坐嶺までは隘口が九つで五百余里、いずれも要衝であるから兵を置くべきで、とりわけ紫荊關および蘆花山嶺は要害だから千戸守禦所を置くべきだと述べた。
- また、さきに大兵が永平を克ったとき、旧元の八翼の軍士千六百人を留めて屯田させ、一人あたり月に糧五斗を支給しているが、得られるものが費用に見合わないので、燕山の諸衛に入れて隊伍を補い操練させるべきだと述べた。いずれも聴き入れられた。
- 辺を巡って雲州に至り、元の平章の僧嘉努の営を英圖で襲い、その帳に突入して捕え、その衆をことごとく捕虜にした。上都の大石崖に至って劉學士の諸寨を攻め克ち、魯爾國公は漠北へ逃げ、これ以来内地を犯す者はなくなり、威名は大いに顕れた。燕邸の造営と北平城の増築は、いずれも雲龍の計画によるものである。
- 洪武七年(1374年)、「雲龍が元の丞相トクトの邸に拠り、旧元の宮中の物を僭用している」と言う者があり、召し還されて何文輝を代わりに遣わしたが、京に着かぬうちに途中で没した。
- 子の華中が襲爵した。李文忠が没したとき、中は看病して薬を進めたことに坐して貶され死んだ。洪武二十三年(1390年)、中が胡惟庸の党であったと追論され、爵は除かれた。