丁德興
- 丁德興は定遠の人。濠で太祖に帰し、その姿かたちの偉大さから「黒丁」と呼ばれた。
- 洪山寨の攻略に従い、百騎で賊数千を破ってその衆をことごとく降した。滁州・和州を克つのに従い、青山の盗を破った。江を渡って采石を抜き、太平を取り、兵を分けて溧水・溧陽を取り、いずれも先登した。
- 曼濟哈雅の水寨を破り、方山の営を衝き、陳兆先を捕え、集慶を下し、鎮江を取るのに従い、功により管軍總管に進んだ。金壇・廣德・寧國を下し、常州平定に従って左翼元帥に抜擢された。
- 寧國がふたたび叛くと、胡大海に従って回復した。兵を分けて江陰を下し、徽州・石埭・池州・樅陽を取り、江州を攻め、兵を移して安慶を撃ち、向かうところみな勝った。ふたたび江陰を援け、江西の近隣の州県を攻略し、雙刀趙を攻めてその鋒をくじいた。
- 当時、徐達と邵榮が宜興を攻めて久しく落ちなかった。太祖は使者を遣わして「宜興城の西は太湖口に通じ、士誠の兵糧の道である。その糧道を断てば必ず破れる」と告げた。徐達は德興を遣わして太湖口を断ち、力を合わせて急攻して城を抜いた。功を論じて鳳翔衛指揮使を授けられた。
- 陳友諒が龍江を犯すと、德興は石灰山に軍して力戦し撃退した。そのまま友諒征伐に従い、安慶を衝き、九江を克ち、安豐を援けて呂珍を破り左君弼を走らせた。鄱陽の戦いに従い、武昌を平らげ、廬州を克ち、湖南の衡州の諸郡をほぼ平定した。
- さらに大將軍に従って淮東を収め、浙西を征し、旧館で士誠の兵を破り、湖州を下し、平江を囲んだ。軍中で没し、都指揮使を贈られた。
- 洪武元年(1368年)、濟國公を追封され、功臣廟に列して祀られた。子の丁忠は龍江衛指揮使とされ、世襲を与えられた。