廣西の平定
- 楊璟は合肥の人。もとは儒家の子で、管軍萬戸として太祖に従って集慶を下し、總管に進んだ。常州を下して親軍副都指揮使に進み、婺州攻略に従って樞密院判官に遷った。
- 再び漢(陳友諒)征伐に従い、功により湖廣行省參政に抜擢され、江陵に鎮を移した。進んで湖南の蠻寇を攻め、三江口に軍を駐め、さらに招討の功により行省平章政事に遷り、左丞の周德興・參政の張彬を率いて武昌の諸衛の軍で廣西を取った。
- 洪武元年(1368年)春、進んで永州を攻めた。守将の鄧祖勝は迎え撃って敗れ、兵を収めて固く守った。璟が進んで囲むと元兵が援けに来て東鄉に駐まり、湘水に沿って七つの営を並べて軍勢は盛んであったが、璟はこれを撃ち破って千余人を捕虜にした。
- 全州の守将である平章の阿爾薩蘭および周文貴が再度兵を率いて援けに来たが、そのつど周德興を遣わして撃ち破った。千戸の王廷を遣わして寶慶を取り、德興と張彬に全州を取らせ、道州・藍山・桂陽・武罔の諸州県をほぼ平定した。
- しかし永州は久しく落ちなかった。裨将に諸門へ分営させ、塁を築いて囲み、西江に浮橋を造って急攻した。祖勝は力尽きて薬を仰いで死に、百戸の夏昇が降を約し、璟の兵は城を越えて入った。參政の張子賢が巷戦したが軍は潰えて捕えられ、永州を克った。
- 一方、征南將軍の廖永忠と參政の朱亮祖も廣東から梧州を取り、潯州・貴州・鬱林を定めていた。亮祖が兵を率いて合流し、進んで靖江を攻めたが落ちなかった。
- 璟は諸将に「彼らが頼みとするのは西濠の水だけだ。その堤岸を切れば必ず破れる」と言い、指揮の邱廣を遣わして牐口關を攻めさせ、堤を守る兵を殺してことごとく濠の水を切り落とし、土堤五本を築いて城に接した。城中はなお固守したので急攻し、二月にこれを克って元の平章の額爾吉訥を捕えた。
- これより先、張彬が南關を攻めたとき城を守る者に罵られ、怒ってその民を皆殺しにしようとしていた。璟は入城するとただちに令を下してこれを禁じ、民はようやく安んじた。
- さらに兵を移して郴州を巡り、両江の王官の黄英・岑伯顔らを降した。永忠もまた南寧・象州を定め、廣西はことごとく平定された。
北征・夏への使いと最期
- 還って偏將軍の湯和とともに徐達に従って山西を取り、澤州に至って元の平章の哈扎噶爾と韓店で戦い、敗績した。還って唐州の乱れた兵卒を捕え、南陽に留まって鎮した。
- まもなく詔して璟を夏へ使いに行かせた。当時、夏主の明昇は幼く、母の彭氏と諸大臣が政を執っていた。璟は到着してしばしば昇に禍福を諭し、入朝させようとした。昇は臣下を集めて共に議したが、諸大臣は専横をほしいままにしており、昇が入朝すれば不利なのでみな不可と主張し、昇も決めかねた。璟は還ってからも重ねて書を送って諭したが、ついに聴かれず、二年余りして夏は滅んだ。
- 璟は湖廣行省平章に遷った。慈利の土官の覃垕が諸洞の蠻を語らって乱を起こすと、命を受けて師を率いて討ち、連戦して破った。覃垕が偽って降ると、璟は部下の兵を報告に遣わしたが捕えられた。太祖は使者を遣わして璟を責め、璟が戦士を督して力攻すると賊は逃げ去った。
- 洪武三年(1370年)、功臣を大封するにあたり、璟は營陽侯に封じられ、禄千五百石を食み、世券を与えられた。
- 洪武四年(1371年)、湯和に従って蜀を伐ち、瞿塘で戦って不利であった。翌年、副將軍に充てられ、鄧愈に従って辰州・沅州の蠻寇を討ち平らげた。ふたたび大將軍徐達に従って北平に鎮し、遼東で兵を練った。
- 洪武十五年(1382年)八月に没し、苪國公を追封され、武信と諡された。
- 子の楊通が嗣いだ。洪武二十年(1387年)、降兵を率いて雲南に戍ったが、途中で逃亡する者が多く、普定指揮使に降された。洪武二十三年(1390年)の詔書は、璟を胡惟庸の党に坐せしめ、瞿塘の敗戦で責められて異心を抱いたと述べている。