明史卷一百二十六 列傳第十四 沐英

出自と初期の任官

  • 沐英は字を文英といい、定遠の人。幼くして父を失い、母に従って兵乱を避けたが、母もまた死んだ。太祖と孝慈皇后はこれを憐れんで養って子とし、朱姓を名乗らせた。
  • 十八歳で帳前都尉を授けられて鎮江を守り、まもなく指揮使に遷って廣信を守った。その後、大軍に従って福建を征し、分水關を破り、崇安を攻略し、別に閔溪の十八寨を破って馮谷保を縛った。ここで初めて本姓に復するよう命じられた。建寧に移鎮し、邵武・延平・汀州の三衞を節制した。
  • ほどなく大都督府僉事に遷り、同知に進んだ。府中の機密の事務は繁雑に積み重なっていたが、英は年若くして明敏で、裁決に滞りがなかった。皇后はしばしばその才を称え、帝も器量を重んじた。

西番の征討と西平侯封爵

  • 洪武九年(1376年)、駅伝に乗って關陝に赴き熈河に至り、民の疾苦を尋ね、不都合な事があれば改めて奏上するよう命じられた。
  • 翌年(1377年)、征西副將軍として衞國公の鄧愈に従って吐番を討ち、西のかた川藏を攻略し、崑崙に兵威を示した。功が多く、開國輔運推誠宣力武臣・榮禄大夫・柱國を授けられ、西平侯に封じられ、食禄二千五百石・世券を与えられた。
  • 翌年(1378年)、征西將軍に拝されて西番を討ち、土門峽で破り、洮州を通ってその長の阿察錫納を捕らえ、東籠山に城を築き、酋長の三副使・癭嗉子らを撃って捕らえ、朶甘納児の七站を平らげ、数千里の地を開いた。男女二万、家畜二十余万を捕らえて凱旋した。
  • 元の國公の托和齊らが和林に屯してたびたび辺境を騒がせたので、十三年(1380年)、英に陝西の兵を統べて塞を出させた。額齊訥路を攻略し、黄河を渡り賀蘭山に登り、流沙を渉ること七日でその地に至った。四翼に分けて夜襲し、自らは驍騎を率いてその中堅を衝き、托和齊および知院の按珠らを捕らえ、その部衆をすべて手に入れて帰った。
  • 翌年(1381年)、また大將軍に従って北征し、別の道から塞を出て公主山の長寨を攻略し、全寧の四部を克し、臚朐河を渡って知院の李宣を捕らえ、その衆をことごとく捕虜とした。

雲南の平定

  • ほどなく征南右副將軍に拝され、永昌侯の藍玉とともに將軍の傅友徳に従って雲南を取った。元の梁王は平章の達爾瑪に兵十余万を率いさせて曲靖で防がせた。英は霧に乗じて白石江へ向かい、霧が晴れると両軍は向かい合い、達爾瑪は大いに驚いた。
  • 友徳は渡江しようとしたが、英は「我が兵は疲れており、渡河中を扼されるおそれがあります」と言った。そこで諸軍を率いて厳しく陣を張り、今にも渡るかのように見せかけ、奇兵を下流から渡らせてその陣の背後に出し、山谷の間に偽の旗を立て、人に銅角を吹かせた。元兵が驚き乱れると、英は急ぎ軍に渡江を指図し、泳ぎの上手な者を先に立て、長刀でその軍を斬った。敵軍が退いたところで全軍が渡り終え、長く激戦し、さらに鉄騎を投入して大敗させ、達爾瑪を生け捕った。屍は十余里に横たわった。
  • そのまま長駆して雲南に入った。梁王は逃げて死に、右丞の觀音保が城を挙げて降り、属郡はみな下った。ただ大理だけは㸃蒼山と洱海に拠り、龍首・龍尾の二關を扼していた。關はもと南詔が築いたもので、土酋の段世が守っていた。
  • 英は自ら軍を率いて下關に至り、王弼に洱水から東へ上關に向かわせ、胡海に石門から間道を通って河を渡らせ、㸃蒼山をよじ登って旗を立てさせた。英は流れを乱して關を斬り開いて進み、山上の軍も馳せ下って挟撃し、段世を捕らえて大理を抜いた。兵を分けて未だ帰属しない諸蠻を収め、官を設け衞を立てて守らせた。
  • 軍を返して友徳と滇池で合流し、道を分けて烏撒・東川・建昌・芒部の諸蠻を平らげ、烏撒・畢節の二衞を立てた。土酋の楊苴らがふたたび諸蠻二十余万を煽動して雲南城を囲むと、英は馳せ救い、蠻は潰えて山谷に逃げ込んだ。兵を分けて捕らえ滅ぼし、斬首は六万に及んだ。
  • 翌年、詔して友徳と藍玉に凱旋を命じ、英を留めて滇中に鎮させた。
  • 十七年(1384年)、曲靖の亦佐の酋が乱を起こしたので討って降し、あわせて普定・廣南の諸蠻を平定し、田州への糧道を通じた。
  • 二十年(1387年)、浪穹の蠻を平らげた。詔を奉じて永寧から大理まで六十里ごとに一堡を設け、軍を留めて屯田させた。

定邊の戦い(洪武二十二年、1389年)

  • 翌年(1388年)、百夷の思倫發が叛き、諸蠻を誘って摩沙勒寨を侵したので、都督の寗正を遣わして撃ち破らせた。
  • 二十二年(1389年)、思倫發がふたたび定邊を侵し、衆は三十万と号した。英は騎兵三万を選んで馳せ救い、火砲と強弩を三列に配置した。蠻は百頭の象を駆り、象には甲を着せて欄楯を負わせ、左右に大竹の筒を挟ませ、筒には投げ槍を装填してきわめて鋭かった。
  • 英は軍を三つに分け、都督の馮誠に前軍を、寗正に左軍を、都指揮同知の湯昭に右軍を率いさせ、戦うにあたって「今日の事は進むのみ、退くことはない」と令した。風に乗じて大声を上げ、砲と弩を一斉に放つと、象はみな引き返して走った。
  • 昔刺亦という者は賊の中の猛将で、決死の戦いをし、左軍がやや退いた。英は高みに登ってこれを望み、佩刀を取って左右に「帥の首を斬って来い」と命じた。左軍の帥は一人が刀を握って馳せ下って来るのを見て恐れ、奮い立って叫んで陣に突入した。大軍がこれに乗じ、斬首は四万余人、生きた象三十七頭を得、残りの象はことごとく殺した。賊の首領たちはそれぞれ百余の矢を受け、象の背に伏したまま死んだ。思倫發は遁走した。諸蠻は震え上がり、麓川はこれ以後ふたたび妨げをなさなくなった。
  • その後、潁國公の傅友徳と合して東川の蠻を討ち平らげ、また越州の酋の阿資および廣西の阿赤部を平らげた。

最期(洪武二十五年、1392年)と治績

  • この年の冬、入朝して奉天殿で宴を賜り、黄金二百両・白金五千両・鈔五百錠・彩幣百疋を賜って帰らせた。暇乞いの際、帝は自ら撫でて「私に枕を高くして南を憂えずにいさせてくれるのは、お前、英だ」と言った。
  • 鎮に還ると、ふたたび百夷を景東で破り、思倫發は降を乞うて方物を貢いだ。阿資がまた叛いたので撃って降し、南中はことごとく平定された。使者を送って兵威によって諸番を諭して降し、番部には幾重にも通訳を経て入貢する者があった。
  • 二十五年(1392年)六月、皇太子の薨去を聞いてきわめて哀しく哭した。もともと高皇后が崩じたとき、英は血を吐くほど哭していた。ここに至って病を発し、鎮所で没した。年四十八(1345頃〜1392年)。軍民はこぞって哭し、遠方の異民族もみな涙を流した。京師に帰葬し、黔寧王を追封し、昭靖と諡し、太廟に配享した。
  • 英は沈着剛毅で口数少なく笑うことも少なく、賢者を好んで士を礼遇し、兵卒を慰撫するに恩があり、みだりに殺すことがなかった。
  • 滇にあっては万事を挙行した。守令を選び、農桑を課し、毎年屯田の増減を比べて賞罰とし、開墾した田は百万余畝に達した。滇池が狭いのを浚えて広げ、水害がなくなった。塩井の利を通じて商人を招き、方物を弁別して貢税を定め、民数を見て力役を均しくした。政令は大まかで細かく縛らなかったので、民はそれによって安んじた。
  • 常に読書して巻を離さず、暇があれば儒生を招いて経史を講説させた。太祖は挙兵の初め、たびたび他姓の者を養って子とし、郡邑を攻め下すとそこへ遣わして守らせ、その数は二十余人に及んだが、ただ英だけが西南にあって勲功が最大であった。

沐春――雲南の鎮守

  • 子の春・晟・昂はみな雲南に鎮した。昕は駙馬都尉で成祖の女の常寧公主を娶った。
  • 春は字を景春といい、才幹と武勇があって父の風があった。十七歳で英に従って西番を征し、また雲南征討に従い、江西の賊の平定に従い、いずれも先登した。功を積んで後軍都督府僉事を授けられた。群臣が試職とするよう請うと、帝は「この子には家の者がついている。試職には及ばぬ」と言い、実授を与えた。かつて烈山の囚人を調べ直すよう命じられ、また蔚州で叛党を鞫問するよう命じられたが、それぞれ数百人を釈放した。
  • 英が没すると、爵を嗣いで雲南に鎮するよう命じられた。洪武二十六年(1393年)、維摩の十一寨が乱を起こすと、瞿能を遣わして討ち平らげた。翌年(1394年)、越巂の蠻を平らげ、瀾滄衞を立てた。
  • その冬、阿資がふたたび叛いたので、何福とともに討った。春は言った。「この賊は長年誅を逃れてきた。諸土酋と姻戚関係にあってあちこち転々と身を隠すからだ。今、諸酋をことごとく徴発して従軍させて縛りつけ、営堡を多く設けてその出入りを制すれば、必ず首を差し出すだろう」。
  • そこで越州へ向かい、道を分けてその城に迫り、精兵を道の左に伏せ、弱兵で賊を誘い出して放って撃ち、大敗させた。阿資は山谷に逃げ込んだが、春はひそかに近隣の土官と結んで居所を探り当て、塁を築いて糧道を断った。賊がひどく困窮したところで不意にその巣窟を衝き、阿資を捕らえ、その党二百四十人をあわせて誅した。越州は平定された。
  • 廣南の酋の儂偵佑が蠻の徒党を糾合して官軍に抗したので、破って捕らえ、捕虜と斬首は千を数えた。寧遠の酋の刀拜爛が交阯を頼んで命に従わなかったので、何福を遣わして討って降した。
  • 三十年(1397年)、麓川宣慰使の思倫發がその属の刀幹孟に逐われて逃げて来たので、春は伴って入朝し、上より方略を受けた。そこで春を征虜前將軍に拝し、何福・徐凱を率いて討たせた。
  • まず兵をつけて思倫發を金齒に送り、幹孟に檄を送って迎えに来させたが応じなかった。そこで兵五十を選び、福と瞿能に率いさせて高良公山を越えさせ、まっすぐ南甸を衝いて大破し、その酋の刀名孟を斬った。軍を返して景罕寨を攻めたが、賊は高みに拠って固守し、官軍の糧はまさに尽きようとしていた。福が急を告げると、春は五百騎を率いて救援し、夜に怒江を渡り、朝に寨の下に着くと、騎を走らせて塵を揚げ天を覆わせた。賊は大いに驚いて潰え、勝ちに乗じて崆峒寨を撃つとこれも潰えた。前後して降った者は七万人。将士は皆殺しにしようとしたが、春は許さなかった。
  • 幹孟が降を乞うたが帝は許さず、春に滇・黔・蜀の兵を統べて攻めるよう命じた。まだ出発しないうちに春は没した。年三十六(1399年)。恵襄と諡された。
  • 春は鎮にあること七年、大いに屯政を修めて三十余万畝を開き、鐵池河を鑿って宜良の涸れた田数万畝を灌漑した。生業に復帰した民は五千余戸に及び、祠を立てて祀った。子がなく、弟の晟が嗣いだ。

沐晟――交阯の役と黔國公封爵

  • 晟は字を景荗といい、若くして重厚で口数少なく笑うことも少なく、読書を好んだので太祖に愛された。後軍左都督を歴任し、建文元年(1399年)に侯を嗣いだ。鎮に赴く頃には何福がすでに刀幹孟を破って捕らえており、思倫發を帰らせた。まもなく思倫發が死ぬと、諸蠻がその地を分割して占拠したので、晟は討ち平らげ、その地を三府・二州・五長官司とし、また怒江の西に屯衞千戸所を置いて守らせた。麓川は平定された。
  • はじめ岷王が雲南に封じられ、不法があって建文帝に幽閉された。成祖が即位して藩に帰したところ、ますます驕り高ぶった。晟がやや抑えると、王は怒って晟を讒訴した。帝は王のことであるから晟を戒める詔を下したが、岷王には書を送ってその父の功を称え、過度に責めないよう戒めた。
  • 永樂三年(1405年)、八百大甸が辺を侵して貢使を妨げたので、晟は車里・木邦と合して討ち平らげた。
  • 翌年(1406年)、大軍を発して交阯を討つにあたり、晟を征夷左副將軍に拝し、大將軍の張輔と別の道から雲南より入らせた。䝉自を経て野蒲で木を伐って道を通じ、猛烈・掤華の諸關隘を奪い、舟を担いで夜に洮水を出て富良江を渡り、輔と合流して多邦城を破り、その東西の二都を衝き、諸巣窟を掃討し、偽王の黎季犛を捕らえた(詳細は輔の伝にある)。功を論じて黔國公に封じ、歳禄三千石・世券を与えた。
  • 交阯の簡定がふたたび叛くと、晟に征夷將軍の印を帯びさせて討たせたが、生厥江で戦って敗れた。輔が再度出て軍を率いて合同して討ち、定を捕らえて京師に送った。輔が帰ると晟は留まって陳季擴を捕らえようとしたが、連戦して下せなかった。輔がまた出て軍を率いて晟と合流し、占城まで追撃して季擴を捕らえ、凱旋した。晟もまた上等の賞を受けた。
  • 十七年(1419年)、富州の蠻が叛くと、晟は兵を率いて臨んだが攻めず、人を遣わして諭し、ついに降した。
  • 仁宗が立つと太傅を加え、征南將軍の印を鋳造して与えた。沐氏で継いで鎮する者はそのつどこの印を帯びるのが常となった。
  • 宣徳元年(1426年)、交阯の黎利の勢いが盛んになり、詔して晟に安遠侯の栁升と合して進討させたが、升は敗れて死に、晟もまた兵を退いた。群臣がこもごも晟を弾劾したが、帝はその上奏を封じたまま晟に示した。
  • 正統三年(1438年)、麓川の思任發が反した。晟は金齒に至り、弟の昂および都督の方政と兵を合わせた。政が前鋒となって賊の沿江の諸寨を破り、大軍は北のかた高麗共山の下に至って再度攻めた。翌年(1439年)、またその旧寨を破ったが、政が伏兵にかかって死に、官軍は敗れた。晟は引き返したが、慚じ懼れて病を発し、楚雄に至って没した。定遠王を贈られ、忠敬と諡された。
  • 晟は父兄の業を受け継いだが用兵は得意とせず、戦ってしばしば利あらずであった。朝廷はその地が極めて遠く、また代々の将であることから寛大に扱った。滇の人は晟父子の威信を畏れ、朝廷に対するように厳粛に仕え、一片の紙が下されても土酋は威儀を整えて城外に出て迎え、手を洗ってから開き、「これは令旨である」と言った。
  • 晟は長く鎮したので田園三百六十区を置き、資財は満ち溢れ、朝廷の要人によく仕えて贈賄が絶えなかった。それゆえ内外の名声を得た。

沐昂・沐斌――麓川の役

  • 晟には子の斌があり、字を文輝といった。幼くして公爵を嗣ぎ京師に住み、昂を代わりに鎮させた。
  • 昂は字を景高といい、初め府軍左衞指揮僉事であった。成祖が晟に南征させようとしたとき、昂を都指揮同知に抜擢して雲南都司を領させ、累遷して右都督に至った。
  • 正統四年(1439年)、将印を帯びて麓川を討ち、金齒に至ったが、賊が盛んなのを畏れて久しく遷延した。参将の張榮が先駆けして芒部に至って敗れたのに昂は救わず引き返したので、二級を貶秩された。その後、思任發が侵入すると撃退し、また師宗の反乱者を捕らえて斬った。
  • 六年(1441年)、兵部尚書の王驥と定西伯の蔣貴が大軍を率いて思任發を討ち、昂は輸送を主管した。賊が破れると昂の官職は回復され、軍を督して思任發を捕らえるよう命じられたが、捕らえられなかった。十年(1445年)に没し、定邊伯を贈られ、武襄と諡された。
  • 斌がはじめて鎮に赴くと、ちょうど緬甸が思任發を捕らえて京師に送ってきた。その子の思機發が襲って来たが、斌は撃退した。思機發がふたたび孟養に拠ったので、十三年(1448年)、また大軍を発して驥らに討たせ、斌は後詰めとなって兵糧の督送にあたり不足がなかった。没して太傅を贈られ、榮康と諡された。

沐璘・沐瓚・沐琮――雲南鎮守の継承

  • 子の宗が幼かったので、景泰の初め、昂の孫の璘に都督同知として代わりに鎮するよう命じた。璘は字を廷章といい、平素から儒雅であったので滇の人は侮ったが、やがて号令は厳粛で犯しがたくなった。天順の初めに没した。
  • 琮は幼かったので、璘の弟で錦衣副千戸の瓚を都督同知に抜擢して代わらせた。在職七年、前後して霑禄の諸寨および兵を構えた土官を討ち平らげ、思卜發を降し、諸蠻が侵した地を返還させ、功が多かった。ただし財貨を貪ることがかなりあった。
  • 成化三年(1467年)春、琮がはじめて鎮に赴き、瓚を副總兵として金齒に移鎮させた。琮は字を廷芳といい、経義に通じ詞章を能くし、属する夷から贈られる進物を一切受けなかった。尋甸の酋が兄の子を殺して守職を求めたので、琮は捕らえて誅した。廣西の土官が部下を虐げて乱となったので、琮は流官に改めるよう請い、民は大いに便利になった。
  • 順次に馬龍・麗江・劍川・順寧・羅雄の叛蠻を討ち平らげ、橋甸・南窩の反乱者を捕らえた。没して太師を贈られ、武僖と諡された。子がなく、瓚の孫の崑が嗣いだ。

沐崑・沐紹勛――正徳・嘉靖期

  • 崑は字を元中といい、初め錦衣指揮僉事を襲ぎ、琮が養って子とした。朝議では、崑は西平侯の裔孫なのだから侯を嗣ぐべきだとされたが、現地の守臣が争って「滇の人は黔國公を知っていて西平侯を知らない。侯とすればかえって軽んじられるおそれがある」と言った。孝宗はもっともだとし、公を嗣がせ従来どおり印を帯びさせた。
  • 𢎞治十二年(1499年)、龜山・竹箐の諸蠻を平らげ、また普安の賊を平らげ、重ねて歳禄を加えられた。
  • 正徳二年(1507年)、師宗の民の阿本が乱を起こすと、都御史の吳文度とともに兵を督して三道に分けて進み、一は師宗より、一は羅雄より、一は彌勒より出、別に一軍を遣わして盤江に伏せて賊の巣窟を断ち、大破した。
  • 七年(1512年)、安南長官司の那代が襲爵を争って土官を殺したので、また都御史の顧源とともに討って捕らえ、重ねて太子太傅を加えられた。
  • 崑は初め文学を好み自ら励んだが、後には権勢ある近臣に賄賂を通じ、請うことで得られないものはなくなった。しだいに驕って三司を凌ぎ、その使者を角門から入らせ、弾劾した言官はそのつど罪を得て去った。没して太師を贈られ、荘襄と諡された。
  • 子の紹勛が嗣いだ。尋甸の土舍の安銓が叛き、都御史の傅習が討って敗れた。武定の土舍の鳯朝文もまた叛き、銓と兵を連ねて雲南を攻めて大いに騒がせた。世宗は尚書の伍文定に大軍を率いて征させたが、到着しないうちに紹勛が部下を督して先に進んだ。土官の子弟で襲うべき者に、先に冠帯を与え、賊を破った後には奏請してやると告げたので、多くが奮戦し、賊は大敗した。朝文は普渡河を渡って走ったが、東川まで追って斬った。銓は尋甸に帰って数十の砦を並べたが、官軍が攻め破り、芒部で銓を捕らえた。前後して賊党千余人を捕らえ、捕虜と斬首は数え切れなかった。嘉靖七年(1528年)のことである。捷報が届くと太子太傅を加え、歳禄を増した。
  • このころ老撾・木邦・孟養・緬甸・孟密が互いに仇殺し、師宗・納樓・思陀・八寨がみな乱れて久しく収まらなかった。紹勛は使者を諸蠻に歴訪させ、武定・尋甸の事例をほのめかしたので、みな畏れ服して侵した地を返したいと申し出、木邦・孟養はともに方物を貢いで謝罪した。南中はことごとく平定された。紹勛は勇と略があり、用兵すれば必ず勝った。没して太師を贈られ、敏靖と諡された。

沐朝輔・沐朝弼・沐昌祚――明末までの沐氏

  • 子の朝輔が嗣いだ。都御史の劉渠が賄賂を求めたので朝輔は与えたが、そのうえで上章して言った。「臣の家は代々この地を守り、上下が相承けてまいりました。今、有司が典制をあれこれ改め、臣の職守に関わることも一切知らされず、接見も旧例に従いません。臣は遠く隔たって孤立し、動くたびに掣肘されて蠻方を押さえることができません。諸臣に旧のとおりにするよう申し渡しをお願いいたします」。詔してこれを許した。給事中の萬虞愷が朝輔を弾劾しあわせて渠を論じたので、詔して渠を罷免し、朝輔には従来どおり事を治めさせた。没して太保を贈られ、恭僖と諡された。
  • 二子の融と鞏はいずれも幼かったので、詔して琮・璘の先例に倣い、融に公を嗣がせて禄の半分を給し、朝輔の弟の朝弼に都督僉事を授けて印を帯びさせ代わりに鎮させた。三年して融が没し、鞏が嗣ぐべきところ、朝弼は内心これを妬んだ。そこで朝弼の嫡母の李氏が、鞏を保護して京師に住まわせ、成長を待って鎮に還すよう請い、許された。鞏は京に着かないうちに没し、朝弼が嗣ぐことになった。
  • 嘉靖三十年(1551年)、元江の土舍の那鑑が叛き、詔して朝弼と都御史の石簡に討たせた。五軍に分けてその城に迫り、まさに抜こうとしたところで瘴気が発して引き返した。詔して簡を罷めさせ再度出師しようとしたところ、鑑は懼れて毒を仰いで死んだので取りやめとなった。
  • 四十四年(1565年)、叛蠻の阿方・李向陽を討って捕らえた。隆慶の初め、武定の叛酋の鳯繼祖を平らげ、賊の巣窟三十余を破った。
  • 朝弼はもとより驕慢で、母や兄嫁に礼を尽くさず、兄の田宅を奪い、罪人の蒋旭らを匿い、調兵の火符を用いて人を京師に探りに行かせた。そこで朝弼を罪に問い、その子の昌祚に嗣がせて禄の半分を給した。朝弼は不満でますます放縦になった。母を葬るために南京に至ると、都御史がそこに留めるよう請い、詔して滇に帰ることは許すが滇の事に関与してはならないとした。朝弼は憤って昌祚を殺そうとしたので、撫按がこもごも上奏し、あわせてその殺人や外国との通交など不法の数々を暴いた。逮捕されて詔獄に繋がれ死罪と論じられたが、功に免じて南京に幽閉され、そこで没した。
  • 昌祚ははじめ都督僉事・總兵官として鎮守し、久しくして公爵を嗣いだ。萬暦元年(1573年)、姚安の蠻の羅思らが叛いて郡守を殺すと、昌祚は都御史の鄒應龍とともに漢兵と土兵を発して討ち、向寧・鮓摩ら十余の寨を破ってその巣窟を平らげ、思らをことごとく捕らえた。
  • 十一年(1583年)、隴川の賊の岳鳯が叛いて緬甸に附き、その兵を頼んで近隣の土司を侵した。昌祚は洱海に陣し、裨将の鄧子龍・劉綎らを督して木邦の叛酋の罕䖍を斬ったが、暑さと瘴気のため兵を退いた。翌年(1584年)、ふたたび罕䖍の旧巣を攻め、三道から並び入ってその酋の罕招らを捕らえ、また猛臉で緬兵を破ると、岳鳯は降った。功を論じて太子太保を加え、旧の禄をすべて食ませた。さらに順次に羅雄の諸叛蠻を平らげ、重ねて銀幣を賜った。
  • 緬兵が猛廣を攻めると、昌祚は軍を合わせて永昌に陣した。緬人が遁げたので那莫江まで追撃したが、瘴気が発して還った。二十一年(1593年)、緬人がふたたび侵入したので、昌祚は赴いて連戦してすべて勝ち、そのまま緬に迫った。ちょうど諸蠻に内乱が起こったので還った。
  • 沐氏は滇に長くあって威権は日ごとに盛んになり、その尊重ぶりは親王になぞらえられた。昌祚が外出したとき僉事の楊寅秋が道を避けなかったので、昌祚はその輿人を笞打った。寅秋が朝廷に訴えると、詔が下って厳しく責められた。その後、病を理由に子の叡に代わって鎮させたが、武定の土酋の阿克が叛いて会城を攻め、府印を脅し取ったので、叡は逮捕されて投獄された。昌祚がふたたび鎮の事を管理し、そこで没した。
  • 孫の啟元が嗣ぎ、没して子の天波が嗣いだ。十余年して土司の沙定洲が乱を起こし、天波は永昌へ奔った。乱が収まると滇に帰った。永明王由榔が滇に入ると、天波は従来どおり職に就いた。その後、王に従って緬甸へ奔り、緬人が脅そうとしたが、屈せずに死んだ。
  • はじめ沙定洲の乱のとき、天波の母の陳氏と妻の焦氏は焼身して死んだ。後に天波が緬へ奔ったとき、妾の夏氏は従うことができず縊れて死んだ。数十日を経て仮埋葬されたが遺体は損なわれておらず、人々は節義の感じさせたところだとした。

史論

  • 賛にいう。明が興って以来、諸将は六王をもって筆頭とする。ただ功が大きかっただけでなく、その忠誠が主君の知遇に適ったからでもある。親しさでは岐陽(李文忠)に及ぶ者がなく、古さでは東甌(湯和)に及ぶ者がない。寧和(鄧愈)と黔寧(沐英)はともに若くして腹心の寄託を受け、汗馬の労を尽くし、純粋に勤めて二心なく、旗と常に輝いて実に恥じるところがない。
  • 岐陽は書を篤くし礼を説いて儒雅をもって重んじられ、東甌は身を退いて邸に帰り、名を全うする哲さで自らを保った。いずれも卓越して常人の及ぶところではない。ただ黔寧は威が遠く辺境を震わせ、符を割いて代を重ね、勲名は明と始終をともにした。
  • しかし寧和は力を尽くして駆けめぐったが、功は高くとも齢は短く、後嗣もまた表れるところが少なかった。論者は、諸王の遺した恩沢に盛衰の違いがあると言う。とはいえ中山(徐達)に増壽があり、岐陽に景隆があったことは、先人の功業を追想すれば遺憾がないわけではない。栄遇が等しくないことも、どうして幸・不幸があるなどと言えようか。