明史卷一百十三 列傳第十 后妃一
序――明朝の後宮の家法
- 太祖は前代の女禍を鑑み、綱紀を立てて何よりも内敎を厳しくした。洪武元年(1368年)、儒臣に命じて女誡を編ませ、翰林學士朱升に諭した。天下を治めるにはまず家を正すこと、家を正す道は夫婦を慎むことに始まる。后妃は天下の母たる立場ではあるが政事に関与させてはならず、嬪嬙の類は職事を務め身のまわりに侍るだけの存在で、恩寵が過ぎれば驕り分をこえて上下の序が乱れる。厯代の宫闈は政が内から出て禍とならなかったためしが少ない、というのがその趣旨である。明主だけが未然に察することができ、それ以下の者は多く惑わされるとして、女誡と古の賢妃の事績で法とすべきものを編ませ、後世の子孫に守るところを知らせよ、と命じた。朱升らはそこで編録して献上した。
- 洪武五年(1372年)六月、禮臣に宫官・女職の制を議させた。禮臣の上言によれば、周制は後宮に内官を設けて内治を賛け、漢室の内官は一十四等で総数は数百人、唐は六局二十四司を設けて官が一百九十人、女史が五十餘人、いずれも良家の女を選んで充てた。帝は設ける数が多すぎるとして裁定し直させた。
- そこで旧制を折衷し、六局一司を立てた。局は尚宫・尚儀・尚服・尚食・尚寝・尚功、司は宫正で、秩はいずれも正六品。各局に四司を領させ、その属は二十有四。尚宫が六局の事を統べ、戒令と責罰は宫正が掌る。官は七十五人、女史は十八人で、唐に比べて百四十餘人を減じた。宫寝に仕えて典守に勤めるだけのためである。
- 諸妃の位号も賢・淑・荘・敬・恵・順・康・寧といった称に限り、閨房の雍肅を旨とした。さらに工部に紅牌を作らせ、后妃を戒める詞を鐫らせて宫中に懸けた。牌は鐵、字は金の飾りである。
- 令典にも著し、后妃以下、嬪御・女史に至るまで、衣食の費用、金銀・幣帛・器用など諸物の供給はすべて尚宫が旨を取り、内使監に牒し、覆奏を経て部臣から支給させた。尚宫が奏さず内史監が覆奏しないまま部から受け取った者は死罪とし、私書を外へ出した者も同罪とした。宫嬪以下に病があっても医者は宫中に入れず、症状を伝えて薬を受け取らせた。
- こうして明の一代を通じて宫壺は肅清であり、その家法の善さは漢唐を超えると評される。孝慈皇后から愍后まで、族里を考え世代を次第し、正号を挙げた者はすべて篇に列ね、事実のある妃嬪も附して見せる。
后妃一――篇に立てる后妃の一覧
- 太祖孝祠髙皇后(孝慈皇后の誤りか)/孫貴妃
- 李淑妃/郭寧妃
- 恵帝馬皇后
- 成祖仁孝徐皇后/王貴妃
- 權賢妃
- 仁宗誠孝張皇后
- 宣宗恭譲胡皇后/孝宗孫皇后(宣宗の孝㳟皇后孫氏。本文に照らせば「孝恭」の誤りか)
- 吴賢妃/郭嬪
- 英宗孝荘錢皇后/孝肅周太后
- 景帝汪廢后(肅孝杭皇后)
- 憲宗吳廢后/孝貞王皇后
- 孝穆紀太后/孝恵邵太后
- 萬貴妃
太祖孝慈髙皇后馬氏――出自と創業期
- 太祖の孝慈髙皇后馬氏は宿州の人。父は馬公、母は鄭媪で、早くに亡くなった。馬公はもともと郭子興と親しく、そこで后を子興に託した。馬公が没すると子興は后を実の娘同然に育て、太祖を非凡と見て后を嫁がせた。
- 后は仁慈で人を見る目があり、書史を好んだ。太祖の劄記はいつも后が預かり、慌ただしい中でも忘れることがなかった。子興が讒言を信じて太祖を疑ったときも、后がその妻によく仕えたので隔たりは解けた。
- 太祖が太平を陥れると、后は将士の妻妾を率いて江を渡った。江寧に居り呉・漢と境を接して戦いの絶えない日々には、自ら甲士の衣鞋を縫って軍を助けた。陳友諒が龍灣に寇したときは、宫中の金帛をすべて出して士を犒った。天下を定めるには人を殺さぬことを本とせよと太祖に語り、太祖はこれをよしとした。
- 洪武元年(1368年)正月、太祖が帝位に即くと册立されて皇后となった。
太祖孝慈髙皇后馬氏――内助と諫止
- はじめ后が帝に従って軍中にあったころ、大飢饉の年に当たり、帝は郭氏に疑われて食に困ったことがあった。后はひそかに炊いた餅を懐に入れて運び、胸を焦がした。ふだんから糗糒や脯修を貯えて帝に不足させず、自分は満腹に眠ることがなかった。貴くなってから帝はこれを蕪蔞の豆粥・滹沱の麥飯になぞらえ、群臣を前に后の賢さを唐の長孫皇后に等しいと述べた。退いて后に語ると、后は、夫婦が互いを保つのはたやすく群臣が互いを保つのは難しい、貧賤を共にした妾を忘れぬのなら患難を共にした群臣も忘れないでほしい、長孫皇后になぞらえられるような者ではない、と答えた。
- 后は内治に勤め、暇には古訓を講究し、六宫に宋には賢后が多いと説き、女史にその家法を録させて朝には多く目を通した。宋は仁厚に過ぎたと言う者があると、仁厚に過ぎるのは刻薄よりましだと答えた。ある日、女史に黄老とはどんな教えで竇太后はなぜ好んだのかと問い、清淨無為を本とし、仁を絶ち義を棄てれば民は孝慈に復るというのがその教えだと聞くと、孝慈こそ仁義であり、仁義を絶って孝慈になるものがあろうかと言った。后は小學を誦し、帝に表章させた。
- 帝が前殿で事を決して激怒した日は、后は帝が宫に還るのを待って事に即して穏やかに諫めた。帝は厳しい性質だったが、后のおかげで刑戮を緩めたことが幾度もあった。
- 參軍郭景祥が和州を守っていたとき、その子が矟を持って父を殺そうとしたと言う者があり、帝が誅そうとした。后は、景祥には子が一人しかなく、人の言は事実でないかもしれず、殺せば後嗣を絶つと述べ、帝が調べると果たして冤罪だった。
- 李文忠が嚴州を守ったとき、楊憲がその不法を誣告し、帝は召還しようとした。后は、嚴州は敵境であり将を軽々に替えるべきではない、文忠はもともと賢く憲の言など信じられようか、と述べた。帝は取りやめ、文忠はのちに功を立てた。
- 學士宋濓が孫の慎の罪に坐して逮えられ死罪と論じられたとき、后は、民家でさえ子弟のために師を招けば礼をもって始終を全うする、まして天子ではないか、濓は家居していて事情を知らぬはずだと諫めた。帝は聴かなかったが、のち帝の食事に侍したさい后が酒も肉も口にせず、理由を問われて宋先生のために福を作しているのだと答えると、帝は箸を投げて起ち、翌日に濓を赦して茂州に安置した。
- 吳興の富民沈秀(沈萬三のことか)は都城の三分の一を築くのを助け、さらに軍を犒いたいと願い出た。帝は匹夫が天子の軍を犒うのは乱民だと怒って誅そうとしたが、后は、法とは不法を誅するもので不祥を誅するものではない、民が富んで国に敵するならその民は自ら不祥であり、不祥の民には天が災いを下すのだから陛下が誅すには及ばない、と諫めた。そこで秀を釈して雲南に戍らせた。
- 帝が重囚に築城させたときも、后は、贖罪の罰役は国家の至恩ではあるが、疲れた囚人に役を加えれば死亡を免れまいと述べ、帝はことごとく赦した。
- 帝が宫人を怒って責めたとき、后も怒ったふりをして宫正司に付して罪を議させた。帝が理由を問うと、帝王は喜怒によって刑賞を加えないもの、怒っているときは軽重が偏る恐れがあるから宫正に付せば公平に酌量される、陛下が人の罪を論じるときも有司に詔されるのと同じことだ、と答えた。
- ある日、后が天下の民は安らかかと問うと、帝は、それはおまえの問うべきことではないと答えた。后は、陛下は天下の父、妾はかたじけなくも天下の母である、子の安否をどうして問わずにおられよう、と言った。
- 旱の年には宫人を率いて蔬食し、祈禱を助けた。凶年には麥飯と野羹を出した。帝が振恤を告げると、振恤は先に蓄積しておくには及ばないと述べた。
- 奏事の官が朝の散会のあと廷中で食事をしたとき、后は中官に飲食を取り寄せさせて自ら味わい、味が良くないと帝に啓して、人主は自らの奉養を薄くし賢を養うことは厚くすべきだと述べた。帝は光禄官を戒飭した。
- 帝が太學から還ると、后は生徒の数を問うた。帝が数千と答えると、后は、人材は多いが、諸生には廩食があってもその妻子は何を頼りにするのかと述べた。そこで紅板倉を立てて糧を積み、その家に賜った。太學生の家に糧を給するのはこれに始まる。
- 諸将が元の都を陥れて宝玉を俘えてくると、后は、元にはこれがあっても守れなかった、帝王には別に宝があるのだろうかと言った。帝が、賢を得ることが宝だと言いたいのだろうと答えると、后は拝謝して、陛下の言のとおり、妾は陛下と貧賤から起こって今日に至り、驕縦が奢侈から生じ危亡が細微から起こることを常に恐れている、だから賢人を得て共に天下を理めたいのだと述べた。さらに、法がたびたび改まれば必ず弊が生じ、法が弊すれば奸が生じる、民をしばしば擾せば必ず困り、民が困れば乱が生じると述べた。帝は至言だと嘆じ、女史に書き留めさせた。后の規正はおおむねこの類である。
- 帝が食事をするたびに后は自ら見届けた。ふだんは大練の洗いざらしの衣を着け、破れても取り替えようとしなかった。元の世祖の后が古い弓弦を煮て用いた話を聞くと、練を取り寄せて織らせ、衾禂として高齢者や身寄りのない者に賜った。余った帛や絹くずも衣裳に仕立てて諸王妃・公主に賜り、蠶桑の労苦を知らせた。
- 妃嬪や宫人で寵を受けて子のある者は厚く待遇し、命婦が入朝すれば家人の礼で遇した。帝が后の一族を訪ねて官を与えようとすると、后は、爵禄を外家に私するのは法ではないと辞退してやめさせた。ただし父母が早く亡くなったことに話が及ぶといつも悲しんで涙を流した。帝は馬公を徐王、鄭媪を王夫人に封じ、墓を修めて廟を置いた。
太祖孝慈髙皇后馬氏――崩御と諡
- 洪武十五年(1382年)八月に病臥した。群臣が禱祀と良医を求めるよう請うと、后は帝に、死生は命であって禱祀に益はなく、医が人を活かせるものでもない、薬が効かなければ妾のせいで医者たちが罪を得ることになりはしないか、と述べた。
- 病が重くなり帝が望みを問うと、賢を求め諫を納れ、終わりを始めのように慎まれること、子孫がみな賢く臣民が所を得ることだけが願いだと答えた。この月の丙戌に崩じた。享年五十一。帝は慟哭し、以後ついに后を立てなかった。
- この年九月庚午、孝陵に葬り、諡して孝慈皇后といった。宫人は后を思って歌を作り、后の聖慈が家邦に行きわたり我らを撫し育んだ徳は忘れがたい、万年ののちまでも、と歌った。
- 永樂元年(1403年)、尊諡を上って孝慈昭憲至仁文徳承天順聖高皇后とし、嘉靖十七年(1538年)にさらに加えて孝慈貞化哲順仁徽成天育聖至徳髙皇后とした。
成穆貴妃孫氏
- 陳州の人。元末の兵乱で父母をともに失い、仲兄の蕃に従って揚州に避難した。青軍が城を陥れたとき元帥の馬世熊が得て義女として育てた。十八歳のとき太祖が納れた。
- 即位ののち貴妃に冊封され、位は衆妃の上にあった。洪武七年(1374年)九月に薨じた。三十二歳。
- 帝は妃に子がないため、周王の肅に慈母の服として斬衰三年を行わせ、東宫と諸王はみな期年とした。儒臣に命じて孝慈録を作らせ、庶子が生母のために三年、衆子が庶母のために期年の服を着ることを定めたのは、この妃から始まる。
- 禇岡に葬り、兄の瑛に田租三百石を賜って毎年の祀に供えさせた。のちに孝陵に附葬した。
淑妃李氏
- 夀州の人。父の傑は洪武初めに廣武衛指揮として北征し、陣中で没した。
- 洪武十七年(1384年)九月、孝慈皇后の服が除かれると淑妃に冊封され、六宫の事を摂した。まもなく薨じた。
寧妃郭氏
- 濠州の人。郭山甫の女。山甫は人相をよく見た。太祖がその家に立ち寄ったとき、山甫は相を見て大いに驚き、貴きこと言うべからざる相だと言い、子の興・英に、おまえたちもみな封侯できる相だ、これによるのだと述べて、急ぎ従わせて江を渡らせ、あわせて妃を太祖に侍らせた。
- のちに寧妃に封じられ、李淑妃が薨じると六宫の事を摂した。山甫は累進して營國公を贈られ、興・英はともに功によって侯に封じられた。それぞれ伝がある。
恵帝皇后馬氏
- 光禄少卿の馬全の女。洪武二十八年(1395年)に皇太孫妃に冊立され、建文元年(1399年)二月に皇后に冊立された。建文四年(1402年)六月、城が陥ちて火中に崩じた。
成祖仁孝皇后徐氏――出自と燕王妃時代
- 中山王徐逹の長女。幼くして貞静、読書を好み、女諸生と称された。太祖は后の賢淑を聞き、徐逹を召して、自分と卿とは布衣の交わりであり、古来君臣が相契るときはおおむね婚姻を結ぶ、卿に良い女がいるなら子の棣に配せようと述べた。逹は頓首して謝した。
- 洪武九年(1376年)に燕王妃に冊立された。髙皇后は深く愛した。王に従って藩に赴き、孝慈髙皇后の喪には三年のあいだ礼どおり蔬食した。髙皇后の遺言のうち誦すべきものは一つ残らず挙げられた。
- 靖難の兵が起こり、王が大寧を襲った隙に李景龍(李景隆の誤りか)が北平を進み囲んだ。当時、仁宗が世子として留守しており、部署も防禦もすべて后の命を禀けた。景隆の攻撃が急になると、后は将校・士民の妻を激励してみな甲を授け、城壁に登らせて拒み守り、城はついに保たれた。
成祖仁孝皇后徐氏――皇后として
- 王が帝位に即くと皇后に冊立された。南北で毎年戦闘があって兵民が疲弊しているから休息させるべきこと、当世の賢才はみな髙皇帝の遺したものであるから新旧で隔てるべきでないこと、帝堯の施仁は親しきより始まったことを述べ、帝はそのつど嘉納した。
- はじめ后の弟の増夀は国情を燕に通じたため恵帝に誅された。帝が爵を贈ろうとすると后は力を尽くして不可と言ったが、帝は聴かずについに定國公に封じ、その子の景昌に襲がせた。それを后に告げると、后はそれは自分の望みではないと言い、最後まで謝礼を述べなかった。
- 漢・趙の二王は性が従順でないから、官僚には廷臣を選んで兼署させるべきだと述べた。ある日、陛下は誰と治を図られるのかと問い、帝が六卿が政務を理め翰林が論思を職とすると答えると、そのすべてを召見したいと請うた。命婦には冠服・鈔幣を賜り、婦が夫に仕えるのは食事や衣服だけではなく必ず助けるところがあるべきこと、朋友の言は従われることも違えられることもあるが夫婦の言は婉順で入りやすいこと、自分は朝夕帝に侍って生民のことだけを念じていることを諭し、努めるよう述べた。
- 女憲・女誡を採って内訓二十篇を作り、また古人の嘉言善行を類編して勸善書を作り、天下に頒行した。
- 永樂五年(1407年)七月、病が革まると、ひたすら帝に百姓を愛惜し、広く賢才を求め、宗室に恩礼を尽くし、外家を驕らせないよう勧めた。また皇太子には、かつて北平の将校の妻たちが自分のために武器を執って城を守ってくれたのに、帝の北巡に随って一人ずつ賚い恤むことができなかったのが心残りだと告げた。
- この月の乙邜に崩じた。享年四十六。帝は悲慟し、靈谷寺・天禧寺で大齋を薦め、群臣の致祭を聴し、光禄に物を具えさせた。甲午、諡して仁孝皇后といった。
- 永樂七年(1409年)、昌平の天夀山に夀陵を営み、四年かけて陵が成るとここに葬った。これが長陵である。帝もまた再び后を立てなかった。仁宗が即位すると尊諡を上って仁孝慈懿誠明荘獻配天齊聖文皇后とし、太廟に祔した。
昭獻貴妃王氏
- 蘇州の人。永樂七年(1409年)に貴妃に封じられた。賢徳があり、仁孝皇后に恭謹に仕えて帝に重んじられた。帝は晩年に急に怒ることが多かったが、妃がそのつど取りなしたので、太子・諸王・公主以下がみな頼りにした。
- 永樂十八年(1420年)七月に薨じた。礼は太祖の成穆孫貴妃に准じた。
㳟獻賢妃權氏
- 朝鮮の人。永樂年間、朝鮮が貢した女が掖庭に充てられたなかに妃がいた。姿質は艶やかで、玉簫を吹くのが巧みで、帝は愛憐した。永樂七年(1409年)に賢妃に封じ、その父の永均を光禄卿に任じた。
- 翌年十月、帝の北征に侍り、凱旋の途上、臨城で薨じた。嶧縣に葬った。
仁宗誠孝皇后張氏――太子妃から皇太后へ
- 永城の人。父の麒は女が貴くなったことにより彭城伯を追封された。外戚伝に伝がある。
- 洪武十六年(1383年)に燕世子妃、永樂二年(1404年)に皇太子妃に封じられ、仁宗が立つと皇后に冊立された。宣宗が即位すると皇太后、英宗が即位すると太皇太后に尊ばれた。
- 太子妃であったころから婦道を守ること至って謹み、成祖と仁孝皇后に喜ばれた。太子はしばしば漢・趙の二王に讒され、体が肥えて騎射できなかったため、成祖は怒って太子宫の膳を減らし、廃立の瀬戸際に至ったことも度々あったが、ついに后のおかげで廃されずにすんだ。
- 皇后に立てられてからは中外の政事をすべて知り、宣徳初めの軍国の大議は多く裁決を仰いだ。当時、海内は安泰で、帝は起居に入って奉り、遊宴に出て奉り、四方の貢献は微物であっても必ずまず皇太后に上げた。両宫の慈孝は天下に聞こえた。
仁宗誠孝皇后張氏――西苑の遊と謁陵
- 宣徳三年(1428年)、太后が西苑に遊んだとき、皇后・皇妃が侍り、帝が自ら輿を扶けて萬嵗山に登り、觴を奉って寿を上り、詩を献じて徳を頌えた。
- その翌年、長陵・獻陵の二陵に謁した。帝は自ら櫜鞬を帯びて騎馬で導き、河橋に至ると馬を下りて輦を扶けた。畿内の民は道を夾んで拝み観、陵のかたわらの老幼はみな山呼して拝み迎えた。太后は帝を顧みて、百姓が君を戴くのは安んじてくれるからだ、皇帝はこれを重く念じよと述べた。
- 帰りに農家に立ち寄り、老婦を召して生業を問い、鈔幣を賜った。蔬食や酒漿を献じる者があれば取って帝に賜り、これが田家の味だと言った。
- 従臣の英國公張輔、尚書蹇義、大學士楊士竒・楊榮・金幼孜・楊溥が行殿での拝謁を請うと、太后は慰労し、そなたらは先朝の旧人であるから嗣君を輔けるよう努めよと述べた。
- 後日、帝は楊士竒に、皇太后は謁陵の帰りの道すがら、そなたたちの行いをよく知っていると言った、張輔は武臣ながら大義に達している、蹇義は重厚で小心だが決断に乏しい、そなたは正言を尽くして忤らうことを避けるな、先帝は時に不快になられたが最後にはそなたに従って事を誤らなかった、しかも従わずに悔いた事が三つある、と述べた。
- 太后は外家に厳しく、弟の張昇は至って淳謹であったが、国事の議に与ることは許さなかった。
仁宗誠孝皇后張氏――英宗の擁立と崩御
- 宣宗が崩じたとき英宗はまだ九歳で、宫中に襄王を召して立てるという流言が生じた。太后は急ぎ諸大臣を乾清宫に召し、太子を指して泣きながら、これが新しい天子であると告げた。群臣が万歳を呼び、浮言はやんだ。
- 大臣が垂簾聴政を請うと、太后は祖宗の法を壊すなと言って退け、ただ一切の急がぬ務めを罷めさせた。常に帝に学問を勧め、股肱に委任させたので、王振は帝に寵されながらも太后の存命中はついに大政を専らにできなかった。
- 正統七年(1442年)十月に崩じた。危篤に際して楊士奇と楊漙(楊溥の誤りか)を召し入れ、中官に国家でまだ処理していない大事はあるかと問わせた。士奇は三つを挙げ、一つは建庶人が亡んでも実録を修めるべきこと、一つは太宗の詔に方孝孺ら諸臣の遺書を収めた者を死罪とするとあるのを緩めるべきこと、三つめを奏上する前に太后は崩じた。
- 遺詔は大臣に帝を輔けて仁政を惇く行うよう勧め、語はきわめて諄篤であった。尊諡を上って誠孝㳟肅明徳𢎞仁順天唘聖昭皇后とし、獻陵に合葬し、太廟に祔した。
宣宗恭譲皇后胡氏
- 名は善祥、濟寧の人。永樂十五年(1417年)に皇太孫妃に選ばれ、のちに皇太子妃となり、宣宗が即位すると皇后に立てられた。
- 当時、孫貴妃が寵を得ており、后には子がなく、また病がちであった。宣徳三年(1428年)春、帝は后に表を上って位を辞させ、后は長安宫に退居して静慈仙師の号を賜り、貴妃が后に冊立された。大臣の張輔・蹇義・夏原吉・楊士奇・楊榮らは争うことができなかった。
- 張太后は后の賢を憐れんでしばしば清寧宫に召し置き、内廷の朝宴では孫后の上に居らせたので、孫后は常に不満であった。
- 正統七年(1442年)十月に太皇太后が崩じると、后は痛哭してやまず、翌年に薨じた。嬪御の礼で金山に葬った。后には過ちがないのに廃されたことを、天下は聞いて憐れんだ。宣宗ものちに悔い、あれは自分の若いころの事だと自ら弁解した。
- 天順六年(1462年)に孫太后が崩じると、錢皇后は英宗に、后は賢くて罪がないのに廃されて仙師とされ、没したときも人が太后を憚って殮葬がみな礼に適わなかったと述べ、位号を復するよう勧めた。英宗が大學士李賢に問うと、賢は、陛下のこの心は天地鬼神が臨んでいる、ただし陵寝の享殿と神主はみな奉先殿の式に倣うのが陛下の明孝にかなうと答えた。
- 天順七年(1463年)七月、尊諡を上って恭譲誠順康穆静慈章皇后とし、陵寝を修めたが廟には祔さなかった。
宣宗孝㳟皇后孫氏――入宫から皇后へ
- 鄒平の人。幼くして美貌があった。父の忠は永城縣の主簿であった。誠孝皇后の母の彭城伯夫人はもと永城の人で、たびたび禁中に入って忠に賢い女がいると言ったので、宫に入ることができた。まだ十余歳で、成祖は誠孝后に養育させた。
- のちに宣宗の婚に際して詔により濟寧の胡氏が妃に選ばれ、孫氏は嬪とされた。宣宗が即位すると貴妃に封じられた。旧例では皇后に金寶と金冊、貴妃以下は冊があって寶がなかったが、妃が寵されたため、宣徳元年(1426年)五月に帝が太后に請うて金寶を作らせ賜った。貴妃に寶があるのはここに始まる。
- 妃にも子がなく、ひそかに宫人の子を取って自分の子とした。これが英宗である。これにより寵眷はますます重くなった。胡后が表を上って位を譲り早く国本を定めるよう請うと、妃は、后の病が癒えれば自ずと子ができる、わが子が后の子に先んじてよいものかと偽って辞退した。宣徳三年(1428年)三月に胡后が廃され、そこで皇后に冊立された。
宣宗孝㳟皇后孫氏――皇太后として
- 英宗が立つと皇太后に尊ばれた。英宗が北狩すると、太后は郕王に監国を命じた。景帝が即位すると上聖皇太后に尊ばれた。宣宗(英宗の誤りか)が迤北にあったときは、たびたび防寒の衣裘を送り、還って南宫に幽せられてからも、太后はたびたび入って見舞った。
- 石亨らが奪門を謀ったときは、あらかじめひそかに太后に告げて許しを得た。英宗が復辟すると徽号を上って聖烈慈夀皇太后といった。明が興ってから宫闈に徽号があるのもここに始まる。
- 天順六年(1462年)九月に崩じ、尊諡を上って孝恭懿憲慈仁荘列齊天配聖章皇后とし、景陵に合葬し、太廟に祔した。英宗の生母のことは、ついに誰も知る者がなかった。
吳太后
- 景帝の母。丹徒の人。宣宗が太子であったころ選ばれて入宫し、宣徳三年(1428年)に賢妃に封じられた。景帝が即位すると皇太后に尊ばれ、英宗が復辟すると再び宣廟の賢妃と称された。成化年間に薨じた。
郭嬪と宣宗の殉葬
- 郭嬪は名を愛、字を善理といい、鳯陽の人。賢くして文才があった。入宫して二十日で卒した。自ら死期を知り、楚声の詞を書いて自らを哀しんだ。長短には数があって較べるに足りない、生は夢のごとくで死は覚めるようなもの、親より先に帰るのは孝を失うのが慚ずかしい、心は悲しみやまずただ悼むほかない、という趣旨である。
- 正統元年(1436年)八月、皇の庶母たちを追贈した。恵妃何氏を貴妃とし諡を端静、趙氏を賢妃とし諡を純静、吳氏を恵妃とし諡を貞順、焦氏を淑妃とし諡を荘静、曹氏を敬妃とし諡を荘順、徐氏を順妃とし諡を貞恵、袁氏を麗妃とし諡を恭定、諸氏を淑妃とし諡を貞静、李氏を充妃とし諡を恭順、何氏を成妃とし諡を肅僖とした。冊文には、身を委ねて義に殉じ龍馭に随って上賓したのだから徽称を薦めて節行を彰すべきだとある。これは宣宗の殉葬の宫妃である。
- はじめ太祖が崩じたとき宫人で死に従う者が多かった。建文・永樂のころ相次いで手厚く恤み、張鳯・李衡・趙福・張壁・汪賔らの家はみな錦衣衛所の試百戸・散騎帶刀舎人から千戸・百戸に進んで世襲を奉じた。世に太祖朝天女戸と呼ぶ。成祖・仁宗・宣宗の代も同じく殉葬を用い、景帝も郕王として薨じたときなおその制を用いた。当時は王府もみなそうであった。英宗の遺詔に至って初めて罷められた。
英宗孝荘皇后錢氏――英宗との歳月
- 海州の人。正統七年(1442年)に皇后に立てられた。帝は后の一族が振るわないのを憫れんで侯にしようとしたが、后はそのたびに辞退したので、后の家だけ封がなかった。
- 英宗が北狩すると、中宫の資財を傾けて迎駕の費に充て、夜ごと哀泣して天に訴え、疲れると地に臥したので片脚を損ない、哭泣のためにさらに片目を損なった。英宗が南宫にあって心穏やかでないときも、后はさまざまに慰めた。
- 后には子がなく、周貴妃に子があって皇太子に立てられた。英宗は臨終に際して、錢皇后の千秋万歳ののちは朕と同じく葬れと遺命し、大學士李賢が退いて冊に書いた。
英宗孝荘皇后錢氏――合葬をめぐる争論
- 憲宗が立ち、両宫に徽号を上るため廷臣に議させたが、太監の夏時が貴妃の意を迎えて、貴妃だけを皇太后に尊ぶよう伝諭した。大學士李賢と彭時が力争し、両宫を並べ立てて后を慈懿皇太后と称することになった。裕陵を営むにあたり、賢と時は三つの壙を営むよう請うたが、夏時がまた不可と言い、事は沙汰やみとなった。
- 成化四年(1468年)六月に太后が崩じた。周太后が合葬を望まなかったので、帝は夏時と懐恩を遣わして大臣に議させた。彭時が真っ先に、裕陵に合葬し主を廟に祔するのは定まった礼だと答えた。翌日、帝が時を召して問うと答えは前と同じであった。帝が、それを知らぬのではない、他日母后の妨げになるのを慮るのだと言うと、時は、皇上が両宫に孝を尽くされる聖徳は世に聞こえている、礼の合するところは孝の帰するところだと述べた。啇輅も祔葬しなければ聖徳を損なうと言い、劉定之は孝は義に従って命には従わぬものだと述べた。帝は黙り込み、久しくして、命に従わずになお孝といえるのか、と言った。
- 時は、裕陵の左に合葬して右を空け周太后を待つよう力請し、さらに大臣とともに疏を上って争った。帝が再び廷議に下すと、吏部尚書李秉と禮部尚書姚䕫が廷臣九十九人を集めて議し、みな時の言のとおりにするよう請うた。帝は、卿らの言はもっともだが、自分はたびたび太后に請うても許しを得られない、礼に乖くのは孝ではなく、親に違うのもまた孝ではないと述べた。
- 翌日、詹事の柯潛と給事中の魏元らが上疏し、その翌日には姚夔らが合疏を上り、みな初めの議を執った。中旨はなお別に葬地を択べと諭したので、百官は文華門の外に伏して哭した。帝が群臣に退けと命じても、衆は叩頭して旨を得るまで退かず、巳の刻から申の刻に至ってようやく許しを得た。衆は万歳を呼んで出た。事は彭時・姚夔の伝に詳しい。
- この年七月、尊諡を上って孝荘獻穆𢎞恵顯仁㳟天欽聖睿皇后とし、太廟に祔した。九月に裕陵に合葬したが隧道を異にし、英宗の元堂から数丈ほど隔てて途中を塞ぎ、右を空けて周太后を待った。周太后のための隧道だけが通じており、奉先殿の祭でも后の主を設けなかった。
裕陵の隧道と祔廟の議(𢎞治年間)
- 𢎞治十七年(1504年)に周太后が崩じると、孝宗は便殿に出て裕陵の図を大學士劉健・謝遷・李東陽に示し、陵に二つの隧道があってどちらが塞がりどちらが往来できるかはみな先朝の内臣がしたことで礼に合わない、成化年間の彭時・姚夔らの章奏を見るに先朝の大臣は国のためにここまでした、先帝もやむを得なかったのだと述べた。欽天監が隧道を通せば先帝の陵堂を犯して地脈を動かすと言ったのを面と向かって折伏した、塞げば天地が閉塞し、通せば風気が流行するのだ、とも述べた。健らはこれを力賛した。
- 帝が祔廟の礼を問うと、健らは、二后を祔すのは唐に始まり、三后を祔すのは宋に始まる、漢より前は一帝一后であった、さきに合祔を定めた議では孝莊太后が左に居り、いま大行太皇太后が右に居る、唐宋の故事を引いて証としたので臣らはこれ以上論じられないと答えた。帝は、二后でさえすでに非である、まして三后はと言った。謝遷は、宋の三后の祔は一人が継立、一人が生母であったと答えた。
- 帝は、事は古に師たるべきだ、太皇太后は朕を鞠育してくださったのだから忘れられようか、それは私情にすぎない、祖宗以来一帝一后であるのに今並べて祔せば礼を壊すのが朕から始まる、しかも奉先殿の祭では皇祖に特座を設けても一飯一匙にすぎない、孝穆皇太后は朕の生母であり奉慈殿に別に祀っている、いま仁夀宫の前殿がやや広いから、そこに太皇太后を奉り、後日に孝穆皇太后をその後ろに奉り、歳時の祭享は太廟のようにしたいと述べた。
- そこで群臣に詳議させ、議が上って新廟を建てることになったが、欽天監がその年は障りがあると奏したので、廷議は暫定的に周太后を奉慈殿に祀り孝肅太皇太后と称するよう請うた。奉慈殿は奉先殿の西にあり、帝はそこに孝穆を祀っていたが、ここに至って中に孝肅を奉り、孝穆を左に移した。帝ははじめ隧道を通そうとしたが、これも陰陽家の言によって果たさなかった。
孝肅周太后
- 英宗の妃で憲宗の生母。昌平の人。天順元年(1457年)に貴妃に封じられ、憲宗が即位すると皇太后に尊ばれた。
- その年十月の太后の誕日、帝が僧道に齋祭を建てさせたので、禮部尚書姚夔が群臣を率いて齋所に詣り太后のために福を祈った。給事中の張寧らがこれを弾劾すると、帝はその言をよしとし、以後は僧道の齋醮に百官が行香することを禁じた。
- 成化二十三年(1487年)四月に徽号を上って聖慈仁夀皇太后といい、孝宗が立つと太皇太后に尊ばれた。
- 憲宗は在位中、太后に仕えること至孝で、五日に一度朝し、宴には必ず親しく侍り、太后の望むことは何であれ喜ばせられないことを恐れた。錢太后を裕陵に合葬する件では太后が難色を示したが、憲宗が言葉を尽くして宥め諭してようやく許しを得た。
- 孝宗は西宫に生まれ、母の紀妃が薨じたので太后が宫中で育て、あらゆる面倒を見た。孝宗が即位してからも太后に仕えて至孝であった。太后が長く腫れ物を患って癒えたとき、群臣に誥諭して、英皇が世を去ってから自分は長樂に正位し、憲宗皇帝は天下の養を尽くして二十四年一日のごとくであった、このたび自分がたまたま腫れ物を患うと皇帝は夜に天に祈って命を請い、春の郊祀では宴を罷めて見舞いに勤め、老いた病身を康寧に至らせた、昔と今を比べて父子二代の孝は同じ筋道であり、まことに嘉するところだと述べた。
- 𢎞治十一年(1498年)冬に清寧宫が火災に遭い、太后は仁夀宫に移り、翌年に清寧宫が成るとまた戻った。
- 太后の弟の長寧伯周彧の家が賜田を持ち、有司がこれを正すよう請うたが、帝は許さなかった。太后は、なぜ自分のせいで皇帝の法を枉げるのかと言い、地を官に返させた。
- 𢎞治十七年(1504年)三月に崩じ、孝肅貞順康懿光列輔天承聖睿皇后と諡し、裕陵に合葬した。太學士劉健・謝遷・李東陽の議により奉慈殿に別に祀って廟には祔さず、なお太皇太后と称した。嘉靖十五年(1536年)に紀・邵の二太后とともに陵殿に移して祀り、主に皇后と題して帝の諡を繋げず、嫡庶を区別した。その後、穆宗の母孝恪、神宗の母孝定、光宗の母孝靖、熹宗の母孝和、荘烈帝の母孝純も、みなこの制に従った。
景帝廢后汪氏
- 順天の人。正統十年(1445年)に郕王妃に冊立され、正統十四年(1449年)冬に王が皇帝の位に即くと皇后に冊立された。
- 后は賢徳があり、京師で死んだ者や老弱で害に遭った者の骨が野に晒されているのを念じて、官校に埋葬させた。二女を生んだが子はなかった。
- 景泰三年(1452年)、妃の杭氏が子の見濟を生み、景帝はこれを太子に立てて憲宗を廃そうとした。后は不可と主張して帝に忤らい、帝はついに后を廃して杭氏を皇后に立てた。景泰七年(1456年)に杭后が崩じ、肅孝と諡された。英宗が復位すると皇后の号を削り、葬られた陵を毀ち、后はもとどおり郕王妃と称された。
- 景帝が崩じたとき、英宗はその後宫の唐氏らを殉じさせ、后にも及ぼそうと議した。李賢が、妃はすでに幽廃されており、まして二人の娘が幼いのはとりわけ憐れむべきだと述べたので、帝はやめた。
- 憲宗は再び太子に立てられたとき、后が廃立を望まなかったことをよく知っていて、はなはだ恭しく仕えた。そこで帝に言って外の王府に移し、宫中の所持品をすべて携えて出ることを許させた。周太后と甚だ仲がよく、歳時に入宫して家人の礼で語らった。
- ただし性が剛直で一徹であった。ある日、英宗が太監の劉桓に、玉玲瓏を腰に繋いだ覚えがあるが今どこにあるかと問い、桓が妃のもとにあるはずだと答えた。英宗が探させると、后はそれを井に投げ入れ、使者にはそんな物はないと答え、のちに人に、七年の天子がこの数片の玉を消受できないのか、と言った。すでに后が持ち出した物は巨万に上ると言う者があり、英宗は使者を遣わして検め取らせ、ことごとく取り尽くした。
- 正徳元年(1506年)十二月に薨じた。祭葬の礼を議したとき、大學士王鏊が、葬は妃の礼で、祭は后の礼でと述べたので、金山に合葬した。翌年、尊諡を上って貞恵安和景皇后とした。
憲宗廢后吳氏
- 順天の人。天順八年(1464年)七月に皇后に立てられた。これより先、憲宗が東宫にあったころ、萬貴妃がすでに寵を独占していた。后は立ってからその過ちを摘んで杖った。
- 帝は怒って詔を下し、先帝は朕のために賢淑を選び、すでに王氏に定めて別宫で育て時期を待たせていたのに、太監の牛玉が勝手に選から退けて吳氏を太后の前で選び直し冊立した、礼が成ったのちに挙動が軽佻で礼度が粗略なのを見、徳が位に称わないので実情を調べたところ、はじめに立てられるはずの者ではなかったと分かった、やむを得ず太后に請うて廃するのだと述べた。立ってからひと月あまりのことであった。
- 后の父の吳俊は先に都督同知を授けられていたが、ここに至って下獄され辺境に戍らされた。牛玉は孝陵に謫されて菜を作らされ、玉の甥で太常少卿の牛綸、玉の甥で吏部員外郎の楊琮はともに除名され、姻家の懐寧侯孫鏜は閒住とされた。そこで南京給事中の王徽・王淵・朱寛・李翔・李鈞らが合疏して、玉の罪は重いのに罰が軽いと言い、あわせて大學士李賢を弾劾した。帝は怒り、徽らをみな辺州の判官に貶した。
- のち孝宗が西宫に生まれると、后は大切に抱き守った。孝宗は即位してからその恩を思い、服も膳もみな母后の礼どおりにさせ、その甥を錦衣百戸に任じた。正徳元年(1506年)に薨じた。劉瑾が焼こうとしたが、大學士王鏊が不可と主張し、妃の礼で葬った。
憲宗孝貞皇后王氏
- 上元の人。憲宗が東宫にあったとき、英宗が配を択んで十二人を得、后と吳氏・栢氏を宫中に留めた。吳氏が立てられて廃されたのち、皇后に冊立された。天順八年(1464年)十月のことである。
- 萬貴妃の寵は後宫に冠絶していたが、后は淡々と対した。孝宗が即位すると皇太后、武宗が即位すると太皇太后に尊ばれた。正徳五年(1510年)十二月に尊号を上って慈聖康夀といい、正徳十三年(1518年)二月に崩じた。尊諡を上って孝貞荘懿㳟靖仁慈欽天輔聖純皇后とし、荗陵に合葬し、太廟に祔した。
孝穆紀太后――孝宗の誕生と秘匿
- 孝宗の生母。賀縣の人。もと蠻の土官の女で、成化年間の征蠻で俘となって掖廷に入り、女史を授けられた。機敏で文字に通じたので内蔵を守らせられた。
- 当時、萬貴妃が寵を専らにして嫉妬深く、後宫に妊娠する者があればみな堕胎させた。栢賢妃が生んだ悼㳟太子も害された。帝がたまたま内蔵に行ったとき、応対が意にかなって寵し、身ごもった。萬貴妃はこれを知って激怒し、婢に命じて堕ろさせようとしたが、婢は偽って痞の病だと報じ、安樂堂に謫居させた。
- 久しくして孝宗を生むと、門監の張敏に溺れさせようとした。敏は驚き、上にはまだ子がないのにどうして棄てられようと言い、粉餌や飴蜜を少しずつ与えて別室に隠した。貴妃は日々窺ったが見つけられず、五六歳になっても胎髪を剪らせなかった。当時、吳后は廃されて西内に住み、安樂堂に近かったので、ひそかに事情を知って行き来し養った。帝は知らなかった。
- 帝は悼㳟太子が薨じてから長く嗣がなく、中外はみな憂えていた。成化十一年(1475年)、帝は張敏を召して髪を櫛らせ、鏡を照らして老いが至るのに子がないと嘆いた。敏は地に伏して、死罪ですが万歳にはすでに子がおいでですと言った。帝が愕然として在り処を問うと、敏は、自分が言えば死ぬことになるが、万歳が皇子の主となってくださるようにと答えた。そこで太監の懐恩が頓首して、敏の言うとおりで、皇子は西内で潜かに養われすでに六歳になる、隠して申し上げなかったのですと述べた。
- 帝は大いに喜び、その日のうちに西内に幸し、使を遣わして皇子を迎えさせた。使が至ると、妃は皇子を抱いて泣き、おまえが行けば私は生きられない、黄袍を着て鬚のある人がおまえの父だと言った。小さな緋の袍を着せ、小輿に乗せて階下に至らせると、髪を地に垂らして走り、帝の懐に飛び込んだ。帝は膝に置いて久しく撫でながら見つめ、悲喜こもごも涙を落として、わが子だ、自分に似ていると言った。懐恩を内閣に遣わして事情を語らせると、群臣はみな大いに喜び、翌日に入賀し、天下に詔を頒った。
- 妃を永夀宫に移し、しばしば召見した。萬貴妃は日夜怨んで泣き、小人どもに欺かれたと言った。その年六月、妃は急に薨じた。貴妃が死に至らしめたとも、自ら縊れたとも言われる。㳟恪荘僖淑妃と諡された。張敏も恐れて金を呑んで死んだ。敏は同安の人である。
- 孝宗が皇太子に立てられたとき、孝肅皇太后は仁夀宫にいて、帝にわが子を私に預けよと言い、太子は仁夀宫に住んだ。ある日、貴妃が太子を召して食を与えようとすると、孝肅は太子に、行っても食べてはいけないと言った。太子が至って貴妃が食を賜ると、もう腹が満ちていると言い、羹を進められると毒があろうと言った。貴妃は激怒し、この子は数歳でこの有様だ、他日われを魚肉にするだろうと言い、怒りのあまり病になった。
- 孝宗は即位すると淑妃に孝穆慈慧㳟恪荘僖崇天承聖純皇后と追諡し、荗陵に改葬して奉慈殿に別に祀った。
孝穆紀太后――外家の探索
- 帝は太后を悲しみ懐かしんで太監の蔡用を遣わして太后の家を求めさせ、紀父貴・紀祖旺の兄弟を得たと報じた。帝は大いに喜び、詔して父貴を貴と改めて錦衣衛指揮同知を、祖旺を旺と改めて錦衣衛指揮僉事を授け、邸宅・金帛・荘田・奴婢を数えきれぬほど賜った。太后の父に中軍都督府左都督を、母に夫人を追贈し、その曽祖・祖父にも同様にした。賀にある太后の先塋を修めさせ、守墳戸を置いてその家の賦役を免じた。
- これより先、太后は宫中で自分の家は賀縣で姓は紀だが、幼くて親族は分からないと言ったことがあり、太監の郭鏞がそれを覚えていた。太監の陸愷も広西の人で、もとの姓は李であり、蠻中では紀と李が同音であることから偽って太后の兄と称し、人をやってその族人を京師に来させた。愷の姉の夫である韋父成という者が偽って名乗り出て、有司は外戚として遇し、その住む里を迎恩里と名づけた。貴と旺は、韋でさえ李を冒すのだ、まして我らは実の李氏だと言い、宗系を偽作して有司に上ったが、有司には弁別できなかった。
- 二人が急に貴くなると父成も闕に詣って争い弁じた。帝は郭鏞に調べさせ、鏞は父成を追い返しつつも駅伝で帰らせた。帝が太后の先塋を修めさせたとき、蠻中の李姓の者数輩がみな太后の家だと使者に自称した。使者が還って奏すると、貴と旺が偽りであることが知れ、あらためて給事中の孫珪と御史の滕祜を遣わし、連州・賀州のあいだを間道で行かせ、微服で猺獞の中に入って訪ねさせた。ことごとく実状を得て帰って奏したので、帝は鏞らをそれぞれ罰し、貴と旺を辺海に戍らせた。これ以後、帝はたびたび太后の家を求めたが、ついに得られなかった。
- 𢎞治三年(1490年)、禮部尚書耿裕が奏して、粤西は大征のあとで兵火と飢荒があり人民は逃散し、年月も遠く踪跡は明らかにしがたい、昔、孝慈髙皇后は髙皇帝と艱難を共にして家を化して国となしたが、徐王は髙皇后の実の父でありながら后の存命中に家族を尋ね求めても得られず、そののち宿州に廟を立てて春秋に祭祀した、いま紀太后は幼くして西粤を離れて先帝に侍り、連州・賀州は徐王の宿州や中原の地とは違い、后が正位した年もない、陛下がいかに切に訪ね求められてもどこから実を得られようか、徐王の故事に倣って太后の父母の封号を定め、桂林に祠を立てて祭るのがよいと述べた。
- 帝は、孝穆皇太后は早くに朕を捨てられ、思うたびに胸を割かれる思いがする、はじめは宗親をなお傍らに求められると思い、百の欺きを受けても一つの真実を得たいと願った、卿らが年久しく尋ねようがないとして封を加え廟を立てて聖母の霊を慰めよと請い、皇祖にすでに故事があるのなら、朕の心は忍びないがどうして違えられようかと述べた。
- そこで后の父に推誠宣力武臣・特進光禄大夫・柱國・慶元伯を封じ、端僖と諡し、后の母を伯夫人とし、桂林府に廟を立てて有司に歳時の祀をさせた。太學士尹直の撰した哀冊には、漢家の堯母の門を目にして宋室の仁宗の慟きを増す、という句があり、帝は閑居のたびに念誦しては啜り泣き涙を流した。
孝恵邵太后
- 憲宗の妃で興獻帝の母。父は邵林、昌化の人で、はなはだ貧しく、娘を杭州の鎮守太監に売った。妃はこうして入宫した。書を知り容色があり、成化十二年(1476年)に宸妃に封じられ、まもなく貴妃に進んだ。
- 興王が藩に赴くとき妃は従うことができなかった。世宗が大統を入り継いだとき、妃はすでに老いて目を病んでいた。孫が皇帝となったことを喜び、世宗の身体を頭のてっぺんから足先まで撫でた。
- 皇太后に尊ばれ、嘉靖元年(1522年)に尊号を上って夀安といった。その年十一月に崩じた。帝は翌年二月に荗林(茂陵の域か)に改葬しようとしたが、大學士楊廷和らが祖陵でたびたび工作を興して神霊を驚かすべきでないと述べ、従わなかった。孝恵康肅温仁懿順協天祐聖皇太后と諡し、奉慈殿に別に祀った。嘉靖七年(1528年)七月に太皇太后と改称し、嘉靖十五年(1536年)に主を陵殿に移して皇后と称し、孝肅・孝穆らと同じ扱いとした。
㳟肅貴妃萬氏
- 諸城の人。四歳で掖廷に選ばれ、孫太后の宫女となった。長じて東宫で憲宗に侍した。憲宗が十六歳で即位したとき、妃はすでに三十五歳であった。機警で帝の意を迎えるのがうまく、皇后吳氏を讒して廃させ、六宫はめったに進御できなかった。帝が遊幸するたび、妃は戎服で前を駆けた。
- 成化二年(1466年)正月に皇第一子を生み、帝は大いに喜んで中使を遣わして諸山川を祀り、貴妃に封じた。皇子は一年経たずに薨じ、妃もこれ以後は身ごもらなかった。
- 当時、帝には子がなく中外は憂え、言う者は恩沢を広く施して継嗣を広げるよう請うた。給事中の李森・魏元、御史の康永韶らが前後して切に述べ、成化四年(1468年)秋には慧星がたびたび現れたので、大學士彭時と尚書姚夔もこれを言った。帝は、内事であるから朕が自ら主とすると言い、用いなかった。
- 妃はますます驕り、中官で用事する者も一度意に忤らえばたちまち斥逐された。掖廷で御幸を受けて身ごもった者が薬を飲まされて堕胎したのは数知れない。孝宗が生まれたとき頭頂の一寸ばかりに髪がなかったのは薬に中てられたからだとも言われる。紀淑妃の死も実は妃のしわざである。
- 佞倖の錢能・覃勤・汪直・梁芳・韋興らはみな貢献にかこつけて民財を苛斂し、府庫を傾け尽くして貴妃の歓心を結んだ。奇技淫巧、禱祠や宫観の糜費は算えきれなかった。
- 久しくして帝の後宫に子が次第に多く生まれると、梁芳らは太子が長じて他日立てば自分たちの罪を治めることを恐れ、ともに妃を導いて帝に儲位を易えるよう勧めた。たまたま泰山が震え、占う者が応は東宫にあると言ったので、帝は心に恐れ、事はやんだ。
- 成化二十三年(1487年)春、急病で薨じた。帝は七日朝を輟め、㳟肅端慎榮靖王貴妃(王貴妃の三字は他の号の誤りか)と諡し、天夀山に葬った。
- 𢎞治初め、御史の曹璘が妃の諡号を削るよう請い、魚臺縣丞の徐頊が紀太后を診た医者たちを逮捕して調べ、萬氏の家属を捕えて当時の薨去の状を糺すよう請うた。孝宗は先帝の意に重ねて背くことになるとして取りやめた。