表の序――七卿を表に立てる理由
- 七卿を表にした前例は以前の史書にない。ではなぜ表を立てるのか。
- 明の太祖は洪武十三年(1380年)に丞相を廃し、政務を六部に帰した。そのため部の権限が重くなったからである。
- 洪武・宣德以後は内閣の体裁がすでに尊く、その権限もしだいに重くなった。そこで内閣と六部が張り合うようになり、廷推(高官の推挙)や考察(官吏の考課)のたびに互いが自説を押し通して私利を営み、党派の対立が生じた。
- 科道の官や下級の官僚がその隙に乗じて弾劾の上奏を繰り返し、入り乱れた。ついに神宗はその騒がしさを厭い、放置して取り上げなくなった。弾劾を多く受けた者は自分から職を退いた。
- 熹宗の朝に至ると、正しい議論は絶え果てた。莊烈帝(崇禎帝)はこれを正そうとしたが、ついに救うことはできなかった。
- 二百七十年のあいだ、七卿のうち正直で他に頼らず立った者はこれこれの人、偏り邪であって有能な者を憎んだ者はこれこれの人、貪欲で凡庸であり宰輔に媚びた者はこれこれの人である。それらをもれなく並べれば、世の移り変わりを見て取ることができる。そこで七卿表を作った。
- 表は洪武十三年(1380年)から始める。成祖が都を遷したのち、南京には侍郎だけを置いた。仁宗になって尚書と都御史が置かれたが、まだ完備されていない。官が備わったのは孝宗の代からである。
- 七卿のうち権限と地位の重い者を参贊機務といい、憲宗より後はこれを兵部の専任とした。しかし代を重ねて泰平が続くと、その任にあたる者はただ清らかな名望を養うばかりで、政治の根本には関わらなくなった。それゆえここには記載しない。
表の本体
- 底本の表は欄内が翻刻されておらず、丁付けだけが並んでいる。推定で表を復元することはしない。