明史卷一百五 表第六 功臣世表一

序――封爵の沿革と表を作る趣旨

  • 古来、帝王は天命を受けて多くの人の力を駆使し天下を得た。天下が定まると功を論じて爵を列し、手厚く報いた。一時の攀鱗附翼の士は甲冑のあいだから身を起こし、割符と圭を分かち与えられ、その恩恵は子孫にまで及んだ。徳意は厚いものであった。
  • 唐宋以降は昔の制度とやや異なる。房喬(房玄齢)は先を見越して真っ先に世襲の封を辞退し、そのため英公・衛公の子孫は庶民の列に落ちた。宋代の勲階はただ虚号を尊ぶだけで、祖・孫・父・子がそれぞれ有名な地名を借りた称号を帯びるにとどまり、もともと世襲を定めた条文がなく、家を継がせる古制には戻らなかった。
  • 明の太祖の創業に至って、大きく古制に復した。歴戦の宿将も帷幄の謀臣も、生前に称号を与えられ、没しては子が封を継いだ。授けられた封土は百数を超えた。
  • しかし晩年には党獄が広がって次々に削り取られ、残った者は三、四割にも満たなかった。とはいえ鉄榜に列挙された訓誡の辞を見れば、河山の誓い・白馬の盟に込められた当初の意図はそうしたものではなく、高く危うい地位で満ち溢れた者が自ら招いた結果だと言える。
  • 文皇(成祖)は靖難の功労を等級づけ、英宗は奪門の功に賞を厚くした。その事跡は佐命に加わり、序列は元功に次ぐものだが、開国の諸臣と同列に論じられるものではない。
  • 世宗の治世なかばに、冊府の旧蔵を開いて絶えた家を継がせる失われた典礼を復した。これにより鄂・曹・衛・信の四家の後裔が再び徹侯に列し、家系を続けることができ、天下は挙って人情の厚さに帰した。
  • 宋・頴・韓・淇の四家は結局断絶したが、そのほか誠を尽くし力を尽くして名を丹書に載せた者たちは、代々高官の冠を伝えて禄位を保ち、宿衛をつかさどり、京営を率い、陪京(南京)を鎮め、漕運を監督した。任地としては方岳の重きに就き、官階は三公・三孤にまで進み、家ごとに典瑞の栄誉を分け合い、朝廷には酎金による処罰もなかった。西京(前漢)の世襲貴族と比べても、それを上回るほどである。
  • そこで、爵位の襲替の年月のうち実録に見えるものを調べて功臣表を作り、本紀・列伝と表裏をなすようにした。記述が食い違ったり散逸したりして年代を確かめようのないものは、省いて書かない。これはもとより史家が闕文を残すという趣旨によるものである。

表の本体

  • 序に続く功臣世表一の本体は、底本では表の欄内が翻刻されておらず、丁付けだけが並ぶ。推定で表を復元することはできない。
  • 表の末尾に「右建文朝」の一行があり、そこまでが建文朝の分であることを示す。