明史卷八十二 食貨六

篇の構成

  • この巻が扱うのは、上供採造・採造・柴炭・採木・珠池・織造・燒造・俸餉・㑹計の九項目である。

上供採造

  • 採造の事は朝ごとに奢倹が異なるが、おおむね英宗の代から華美に流れ、憲宗・武宗がこれを継ぎ、世宗・神宗に至って極まった。項目は煩瑣で徴発も乱れ、最も巨額で困難なものが採木、毎年の造作で最大のものが織造と燒造であった。酒醴・膳羞は光祿寺が掌り、採辦の調達は工部の四司と内監の司局、あるいは特派の官が担い、柴炭は惜薪司が掌った。そして民の害となるものは、たいてい中官(宦官)の手から出た。
  • 明初の上供は簡素で、郡縣が香米・人參・葡萄酒を貢いだのを、太祖は民を労するとして却けた。
  • 仁宗の初め、光禄卿の井泉が、毎年の例として正官を南京に遣わし玉面貍(ハクビシン)を採らせたいと奏したところ、帝は叱って「小人は政の体を解さぬ。朕はいま詔を下して急がぬ務めをことごとく罷め、民を休ませようとしている。口腹の些事で大信を失えようか」と言った。
  • 宣宗の時、永樂年間に河州の官が乳牛を買い上げ酥油の上供に充てていたのを罷め、その牛を屯軍に給した。また御史二人に命じて監察させ、内外の官で支給を多く取る者・需索する者があれば捕らえて奏上させた。
  • 英宗の初政では、三楊(楊士奇・楊榮・楊溥)が政柄を執り、南畿の牧養する黄牛四萬頭を減らし、糖蜜・果品・腒脯(干し肉)・酥油・茶芽・粳米・糯米・粟米・藥材をそれぞれ差をつけて減省し、諸処の捕魚官を撤した。即位から数ヶ月で切り詰めた点は多かった。
  • 上用の膳食器皿は三十萬七千あまり。南京工部が金龍鳳の白瓷諸器を造り、饒州が硃紅の膳盒諸器を造り、營膳所の造るところを進めた。宫中の食物を扱う膳監がこれを横領していたので、帝は帖(伝票)を備えて数のとおり書き記し返却させた。
  • 景帝の時、于謙の言に従い、真定・河間での野味の採取と、直沽の海口で乾魚を造る内使を罷めた。
  • 天順八年(1464年)、光禄の果品・物料は合計百二十六萬八千餘斤に上り、旧額の四分の一増であった。
  • 成化の初め、光禄寺の牲口(家畜)は十萬を超えてはならぬと詔した。翌年、寺臣の李春が増額を請うたが、禮部尚書の姚䕫が「正統年間は鶏・鵝・羊・豕に毎年三四萬を費やしたが、天順以来四倍に増えた。暴殄が過ぎる」と言い、前の詔に従うよう請うた。
  • その二年後、給事中の陳越が「光祿は物を市うのにおしなべて権勢で取り立て、行商はまるで劫掠に遭うようだ。光祿の供するものが昔は足りたのに今足りないのは、宣索(御用の言いつけ)が額を超え、侵漁と濫費があるからだ」と言った。
  • 大學士の彭時もまた「光祿寺は小人を用い、買辦にかこつけて私を営み、民の利をことごとく奪っている。宣徳・正統年間の例に照らして供用を斟酌し、買辦を禁じるべきだ」と言った。そこで魚と果の年額を十分の一減らした。
  • 宏治元年(1488年)、光祿に増加した供應を減らすよう命じた。もともと光祿はみな官錢を前渡しして物を市っており、行頭・吏役がそれに乗じて着服していた。そこで各行にまず納入させ、後から代価を償う方式に改めた。すると遊手の徒が「報頭」と号し、供應の名を借りて値を抑えて倍取りし、私腹を肥やした。御史の李鸞がこれを言上し、帝は禁止を命じた。
  • 十五年(1502年)、光祿卿の王珩が、内外の官役の酒飯および飼育する禽獸の飼料の数、あわせて百二十件を列挙して上奏した。そこで㫖が下り、旧のままとするもの、半減するもの、停止するものが定められ、乾明門の虎、南海子の猫、西華門の鷹犬、御馬監の山猴、西安門の大鴿などを放ち、それぞれ差をつけて減らし、残したものは飼料を減らした。
  • 成化の頃から坐家長隨八十餘員を加え、さらに湯飯の中官百五十餘員を伝添したため、天下の常貢では足りず、京師の舖户に買わせることになった。代価は時に応じて支給されず、市井は負担を重ねた。兵部尚書の劉大夏が天変にかこつけてこれを言上し、中官を裁減して毎年八十餘萬兩の銀を省いた。
  • 武宗の世には各宫の日進・月進が数倍となった。天順の時の厨役の額は、仁宗の時にはわずか六千三百餘名だったのが、憲宗の時に四分の一増えた。世宗の初めに四千一百名まで減らし、年額の銀も十三萬兩まで切り詰めたが、中年には再び四十萬に増え、割り当てが足りず太倉から借り、太倉も足りずに元供の司府に数のとおり増派させた。
  • そこで帝はその横領を疑い、禮部に問状を下し、光禄寺に数を具して奏するよう責めた。帝はさらに㫖を下して詰責し、御史に月進の揭帖(明細)を稽覈させたところ、二ヶ月で二萬餘兩の銀を省いた。以後これが恒例となった。

採造(採辦)

  • もともと上供の物は土地に任せて貢がせるのを「嵗辦」といい、足りなければ官が錢を出して市うのを「採辦」といった。その後は本色と折色を兼ね収めるようになり、採辦がいよいよ繁くなった。そこで商人を召して買い付けさせたが、物価が大きく割られたため、商賈は姿を隠した。
  • 二十七年(嘉靖二十七年・1548年)、户部は「京師では商を召して貨を納めさせ代価を取らせているが、富商は逃れ、役に応じるのは皆貧弱の下戸である」と言い、実態を調べて編審するよう請うた。
  • 給事中の羅崇奎は「諸商が囷(在庫)を重んじる(尻込みする)理由は、物価が安ければ値を減らされ、高くなっても増額を言い出せず、しかも収納の時期が定まらず、一度風雨に遭えば使えなくなり賠償を重ねる。収納の後も担当者の交代が定まらず、すぐには代価を支給せず、そのまま棚上げになる。運よく支給されても、上では官司が値切り、下では番役がむしり取る。名は平估(公正な見積り)でも、得られるものは半分にも満たない。これらの弊を除けば商は自ら喜んで赴く。編審など要らない」と言った。名目上はその言を容れながら、結局は户部の議のとおり編審を行った。
  • 穆宗の朝、光禄少卿の李健が十事を奏し、帝はこれを可とし、かなりの減省が行われた。承天の香米、外域の珍禽奇獸を停め、寳坻の魚鮮を罷め、薦新の品はすべて光祿寺が受け取ることとして中官を遣わさぬこととした。
  • また太監の李芳の請いにより、加増して納めさせていた粳米・白鹽・青鹽の徴収を停め、すべて成化・宏治年間の例に依らせた。御史の王宗載が加派の停止を請い、部議はことごとく元額に準じることとし、果品百七萬八千餘斤、牲口銀五萬八千餘兩とし、加派の銀二萬餘兩を免じた。実施されぬうちに神宗が立ち、詔してこれを免じた。
  • 世宗の末年、年間の支出は十七萬兩にとどまり、穆宗が二萬を裁して十五萬餘となり、経費は倹約されていた。萬厯の初年にはさらに減って十三、四萬となったが、中年には次第に増えて三十萬近くとなり、舖户の負担がますますひどくなった。
  • 当時、中官の需索と賄賂、各舖の敷金・諸経費は莫大で、支給額では償えず、民は堪えられず相次いで逃げ隠れた。そこで京師の富户を選んで商に充てさせたところ、令が下ると指名された者は死地に赴くように思い、重賄を使って免除を働きかけ、官司は姦盗を捕えるかのように密かに探索した。
  • 宛平知縣の劉曰淑は「京師の民は一たび僉商に遭えば毫髪も残さず取られ、元手はすべて尽きる。厚めに見積もって先に支給し、民の困窮を救われたい」と言った。御史の王孟震が職務怠慢としてこれを排斥したので、曰淑は自ら弾劾して官を解いて去った。
  • 熹宗の時に至ると商の負担はさらに重くなり、官に物を納めながら一錢も受け取れぬ者が出た。
  • 洪武の時、宫禁の中で物を市うには時価に十錢を上乗せするのが例で、上を損じて下を益することはこのようであった。
  • 永樂の初め、五色石の採取を言上した者を斥け、また温州から礬を輸させるのは民を苦しめるとして、染色布を罷めた。しかし内使が地方に出るのはこの時に始まる。工役が盛んに興り、徴取がやや急となって、その土地にない物まで求められ、民は破産してそれを購った。軍器の需要はとりわけ数え切れなかった。
  • 仁宗の時、山場・園林・湖地・坑冶・果樹・蜂蜜のうち官が守禁を設けていたものを、ことごとく民に与えた。
  • 宣宗は閘辦の金銀を罷め、そのほか紙・靛・紵絲・紗羅・氁縀・香貨・銀硃・金箔・紅花・茜草・麂皮・香蠟・藥物・果品・海味・硃紅戧金の龍舞の器物も多くを罷め減らした。副都御史の弋謙が「有司は買辦の物料の代価を十のうち一も償わず、ただ取りと変わらない」と言い、帝はこれを嘉納し、工部に諭して調査・懲罰させた。
  • また泰安州稅課局大使の郝智の言により、派遣していた官をすべて召還し、今後は軽々しく派遣を許さず、軍器・軍需のほかは買辦をすべて停止する旨を敕した。しかし寛免の詔がたびたび下り、内使を撤還させる敕がたびたび出ても、奉行は実を伴わず、宦者はすぐに採辦を名として民から虐取した。袁琦・阮巨隊ら十餘人を誅して、ようやく害はやや息んだ。
  • 英宗が立つと、諸処の採買および西洋に下る船の木材など無駄な費用を罷めた。正統八年(1443年)、買辦が民を煩わすとして、存留の錢糧の内から折納させ、近い方の兩京に運上させることにした。
  • 先に仁宗の時、中官に邊塞を鎮守させ、英宗が復活させて各省に鎮守を置き、さらに守備・分守の中官を天下に配置した。憲宗の時にもこれは甚だしく、書を購い藥を採る使者が珍玩を漁り尽くし、鹽引を押し売りし、私かに禽鳥を採り、官帑を浪費し私賄を納めることは巨萬を数えた。太嶽太和山の降真などの香は三年で七千斤を用いていたのが、この時には倍となり、内府の物料は五、六倍に達するものもあった。
  • 孝宗が立つとかなり減省があった。甘肅巡撫の羅明は「鎮守・分守の内外の官は競って貢献を尚び、それぞれ使者を邊衞に遣わして方物を漁り、名は採辦だが実は軍士の月糧・馬價を差し引き、あるいは巧みに蕃人の大馬・奇珍を取り上げる。さらに膳房・乳房などを設けて厨役を徴発し酥油などを造らせ、起運のころには沿道が騒擾する。すべて罷めていただきたい」と言い、可とされた。
  • しかしその後、浪費は次第に増した。武宗が劉瑾を任じるに至って利を漁ることに飽きるところなく、鎮守中官はおしなべて銀を萬単位で貢ぎ、皇店など名目もさまざまで、年ごとの調達には土産でない物が多かった。諸布政使が来朝して進貢の害を陳べたが、いずれも顧みられなかった。
  • 世宗の初め、内府の供應は正徳の十分の九を減らしたが、中年以後は営建・齋醮・採木・採香・採珠・玉・寳石で吏民は奔命に暇なく、黄蠟・白蠟は三十餘萬斤を用い、さらに召買があり、折色は正数の三倍に及んだ。沈香・降香・海漆などの香は十餘萬斤に達した。
  • また道を分けて龍涎香を購わせたが十餘年得られず、使者は海舶が澳に入るのを請い、久しくしてようやく得た。方澤壇・朝日壇の爵には紅玉・黄玉を用いることになったが求めても得られず、陝西の辺境で購い、使者を阿丹(アデン、土魯畨の西南二千里)に遣わして探させた。太倉の銀もかなり承運庫に取り入れられ、金・寳・珍珠を調達し、猫兒睛(キャッツアイ)・祖母碌(エメラルド)・石緑・撤孛尼・口紅刺石・北河洗石・金剛鑽・珠藍石・紫英石・甘黄玉と、購わぬものはなかった。
  • 穆宗もこれを受け継ぎ、珠寳の買い付けはますます急となった。給事中の李已と陳吾徳が疏して諫めたが、已は下獄、吾徳は削籍となり、以後は供給がいよいよ多くなった。
  • 宣宗の初め、内承運庫太監の李敏が金珠の買い上げを請うたが、張居正が敏の疏を封じ返したので、事はやんだ。久しくして帝は日ごとに貨を貪り、開採の議が大いに興って費用は巨萬を数え、珠寳の価は旧の二十倍となった。户部尚書の陳蕖が「庫藏はすでに尽きた。切り詰めるべきだ」と言うと、中㫖で厳しく責められ、順天府尹は大珠・鴉青を購入したが㫖に合わぬとして降級された。末年に至ると内使が入り乱れて出、採造はいよいよ繁く、内府は欠乏を訴え、辺境に送るべき銀を移してこれに充てるまでになった。
  • 熹宗はひたすら中官の言うままにしたので採造はとりわけ多かった。莊烈帝が立って初めて整理と節減に努めたが、庫藏はすでに枯渇していた。

柴炭

  • 永樂年間、後軍都督府が柴炭を供し、宣府の十七衞所の軍士を役して辺関で採らせた。宣宗の初め、辺の木は敵騎を阻むためのものであり、辺軍を他の役に使うべきでないとして、詔してその採伐を免じ、毎年銀二萬餘兩を納めさせ、後府は商を召して買い納めさせた。
  • 五年(宣徳五年・1430年)、易州に山厰を置き、工部侍郎に監督させ、北直・山東・山西の民夫を徴発して転運させた。後府が銀を出して商を召すのは従来どおりであった。
  • 当初、年間に用いる薪は二千萬餘斤にとどまったが、𢎞治年間に四千餘萬斤に増えた。転運が難しくなったため、北直・山東・山西はすべて銀を納めて商を召す方式に改めた。
  • 正徳年間には薪の使用がさらに増え、三萬餘兩を増額した。柴炭の収受には十分の三の加耗(欠減見込み)が付くが、中官は勝手に数倍を上乗せしたので未納が積もり、三年分の正供で一年分の耗を補うありさまとなった。尚書の李鐩は正と耗を釣り合わせるよう議したが、収納にあたる者がまた私かに上乗せし、四萬斤をもって萬斤とするに至った。さらに輸納の際の雑費もあり、民は堪えられなかった。世宗が登極してこれを酌量して減らした。
  • 隆慶五年(1571年)、後府の採納が困難なため、兵部の車駕司の所管に改めた。萬厯年間には柴の代価が年に銀三十萬兩に上り、中官が自ら徴収して諸商を酷刑で責め立てて絞り取ったので、人は惜薪司を陥穽と呼んだという。

採木

  • 採木の役は、成祖が北京の宫殿を修造したことに始まる。永樂四年(1406年)、尚書の宋禮を四川に、侍郎の古析を江西に、師逵と金純を湖廣に、副都御史の劉觀を浙江に、僉都御史の史仲誠を山西に遣わした。禮は、数本の大木が一夜のうちに大谷から浮かび出て江に達したと言上し、天子はこれを神とし、その山を神木山と名づけ、官を遣わして祠祭した。
  • 十年(1412年)、再び宋禮に四川で採木するよう命じた。仁宗が立つとその役を止めた。
  • 宣宗元年(宣德元年・1426年)、南京の天地壇・山川壇の殿宇を復するため、侍郎の黄宗載・吴廷用に命じて湖廣で採木させたが、ほどなく旱災のためこれを止めた。まもなく再び湖廣で大木を採らせたが、工部に諭して切り詰めさせ、まもなく罷めた。他の地でも採ったり罷めたりが続いた。
  • 𢎞治年間、内帑を出して清寧宫を修め、四川の採木を停めた。
  • 正德の時、湖廣・四川・貴州で採木し、侍郎の劉丙に督運を命じた。太監の劉養が梁棟に適さぬ材だと弾劾し、丙は陳状を責められ、工部尚書の李鐩は俸を奪われた。
  • 嘉靖元年(1522年)、神木千户所および衞卒を廃した。二十年(1541年)、宗廟が焼けたため、工部侍郎の潘鑑と副都御史の戴金を湖廣・四川に遣わして大木を調達させた。
  • 二十六年(1547年)、さらに工部侍郎の劉伯躍を遣わして四川・湖廣・貴州で採らせた。湖廣一省だけで費用は三百三十九萬餘兩に及んだ。また官を遣わして諸処に残された大木を調べさせ、郡縣の有司で大工事を遅らせたとして逮治・罷免された者は一人ではなく、河沿いの州縣がとりわけ苦しんだ。
  • 萬厯年間、三殿の工事が興ると、楠・杉などの木を湖廣・四川・貴州で採り、費用は銀九百三十餘萬兩、民間から徴発し、嘉靖年間の費用よりさらに倍増した。南直隸・浙江で鷹平・條橋などの木を採った分は、商人の未払いが二十五萬に達した。科臣が督運の臣の遅延と横領を弾劾したが取り上げられず、空しく浪費と着服が続き、公私ともに困窮した。

珠池

  • 廣東の珠池はおおむね数十年に一度採取した。宣宗の時、中官に東莞の珠池を採らせるよう請う者があったが、これを獄に繋いだ。英宗が初めて中官に監守させ、天順年間に一度採った。
  • 𢎞治十二年(1499年)に至り、年久しく珠も老熟していて最も多く採れ、銀萬餘を費やして珠二萬八千兩を得た。そこで監守の中官を廃した。
  • 正德九年(1514年)にまた採り、嘉靖五年(1526年)にも採ったが、珠は小さく未熟で数も甚だ少なかった。八年(1529年)にまた例に照らして採ろうとしたが、兩廣巡撫の林富は「五年の採取の役では死者五十餘人を出しながら、得た珠はわずか八十兩。天下は人をもって珠に換えたと言うが、今日では人を換えても珠は得られまい」と言った。
  • 給事中の王希文は「雷州・廉州の珠池に祖宗が官を置いて監守させたのは、民の争奪を防ぐためにすぎない。正德年間に逆賊(劉瑾ら)が事を用い、伝奉によって採取させ毒を海浜に流した。陛下は御極されて珠池の少監を廃されたのに、久しからずして復し、無辜の民を駆って測り知れぬ危険に踏み込ませ、必ずしも得られぬ物を求めさせ、満たしがたい数を責めておられる。聖政のあるべき姿ではない」と言った。いずれも聴かれなかった。
  • 隆慶六年(1572年)、雲南に寳石二萬塊を進上させ、廣東に珠八千兩を採らせるよう詔した。神宗が立って停罷した。
  • ほどなく太后への進奉、諸王・皇子・公主の冊立・分封・婚礼のため、毎年金・珠・寳石を調達させ、再び中官の李敬・李鳳を遣わして廣東で珠五千一百餘兩を採らせた。給事中の包見捷が力を尽くして諫めたが容れられなかった。三十二年(萬厯三十二年・1604年)に至ってようやく採取を停めたが、四十一年(1613年)に指揮の倪英の言によって再開された。

織造

  • 明の制度では兩京の織染は内・外ともに局を置き、内局は上供に応じ、外局は公用に備えた。南京には神帛堂・供應機房があり、蘇州・杭州などの府にもそれぞれ織染局があって、毎年の造る数が定まっていた。
  • 洪武の時、四川・山西などの行省と浙江紹興に織染局を置き、また儀真・六合に藍靛所を置いて青藍を植えて染めに供したが、ほどなくすべて罷めた。また天下の有司が毎年縀疋を織ることを罷め、賞賜には絹帛を給し、後湖に局を置いて織造させた。
  • 永樂年間、歙縣の織染局を復設し、陝西に駝毼を織らせた。正統の時、泉州に織造局を置いた。
  • 天順四年(1460年)、中官を蘇州・松江・杭州・嘉興・湖州の五府に遣わし、常額のほかに綵縀七千疋を増造させた。工部侍郎の翁世宗が減らすよう請うたところ、錦衣獄に下され衡州知府に左遷された。増造の割り当てはここに始まる。
  • 孝宗の初め、蘇州・杭州・嘉興・湖州・應天への織造の割り当てを停めたが、その後また設け、中官に鹽引を給して淮で売らせその費用に充てた。
  • 正德元年(1506年)、尚衣監が「内庫に貯えた諸色の紵絲・紗羅・織金・閃色の蟒龍・斗牛・飛魚・麒麟・獅子の通袖・膝襴および胸背の斗牛・飛仙・天鹿は、いずれも天順年間に織ったもので、下賜に用いて尽きた。應天・蘇州・杭州の諸府に式のとおり織造させたい」と言い、帝はこれを許して一萬七千餘匹を造らせた。
  • おおむね成化・𢎞治の時には下賜は慎重であったが、劉瑾が事を用いてからは寵幸の宦官の願い出が次第に広がり、まだ元服もせぬのに章服を僭称する者まで現れ、濫賞は日々増えた。中官が鹽引・関鈔を求めることは止むところがなく、織造を監督しては官吏を威圧した。
  • 世宗の時にもその禍は終わらず、即位して間もなく中官に南京・蘇州・杭州・陝西の織造を監督させた。穆宗は登極の詔で中官を撤したが、ほどなく再び遣わした。
  • 萬厯七年(1579年)、蘇州・松江の水災により、給事中の顧九思らが織造の内臣を召し返すよう請うたが、帝は聴かなかった。大學士の張居正が飢饉と民の疲弊で催促に堪えぬことを力説して、ようやく許された。
  • ほどなく再び中官を遣わし、居正が没すると増織が次第に多くなった。蘇州・杭州・松江・嘉興・湖州の五府の年造のほかに、浙江・福建・常州・鎮江・徽州・寧國・揚州・廣德の諸府州にも分けて造らせ、一萬餘疋を増やした。陝西の織造する羊絨は七萬四千餘、南直隸・浙江の紵絲・紗羅・綾・紬・絹帛、山西の潞紬は、いずれも旧制より丈尺を加えた。二、三年の間に費用は百萬に達し、工部・户部の二部から取り立て、庫藏を漁り、軍国の費用を差し止めた。部臣・科臣がたびたび争ったがいずれも聴かれなかった。末年にはさらに稅監に兼務させたので姦弊は日ごとに増した。
  • 明初は南北に織染局を設け、南京に供應機房を置き、各省・直隷は毎年の造作で供用に充て、蘇州・杭州の織造は行ったり止めたりであった。萬厯の中頃から頻繁に割り当てて造らせ、年に十五萬疋に達し、久しく続いてついに常例となった。陝西の織造する絨袍も𢎞治・正德年間にたまたま行われたにすぎなかったが、嘉靖の時に再び遣わし、やはり常例となった。

燒造

  • 燒造の事は、外では臨清の甎厰、京師では琉璃厰・黑窯厰があり、いずれも甎瓦を造って営繕に供した。
  • 宣宗が初めて中官の張善を饒州に遣わし、奉先殿の几筵に用いる龍鳳文の白瓷祭器を造らせ、磁州で趙府の祭器を造らせた。翌年、善は罪を得て誅され、その役は罷められた。
  • 正統元年(1436年)、浮梁の民が瓷器五萬餘を進めたので鈔で償い、黄・紫・紅・緑・青・藍・白地青花などの瓷器を私に造ることを禁じ、違反者は死罪とした。
  • 宫殿が落成すると、九龍・九鳳の膳案などの器を造らせた。その後また青龍白地の花缸を造らせたが、王振はひび(璺)があるとして錦衣指揮を遣わして提督官を杖打たせ、中官に督させて造り直させた。
  • 成化年間、中官を浮梁の景徳鎮に遣わして御用の瓷器を燒造させたが、最も数が多く期間も長く、費用は莫大であった。孝宗の初め、中官を撤回したがまもなく再び遣わし、𢎞治十五年(1502年)にまた撤したが、正德の末に再び遣わした。𢎞治以来、焼き上がらぬままの分が三十餘萬器に上った。
  • 嘉靖の初め、中官を遣わして監督させた。給事中の陳臯謨が民の大害であるとして罷めるよう請うたが、帝は聴かなかった。
  • 十六年(嘉靖十六年・1537年)、七陵の祭器を新造した。三十七年(1558年)、官を江西に遣わして内殿の醮壇の瓷器三萬を造らせ、後に饒州通判を増設して御器厰の燒造を専管させた。この時期は営建が最も繁く、京に近い地と蘇州にも甎厰があった。
  • 隆慶の時、江西に瓷器十餘萬を燒造するよう詔した。萬厯十九年(1591年)、十五萬九千を造るよう命じ、まもなくさらに八萬を追加し、三十八萬に至っても工事は終わらなかった。その後は役もしだいにやんだ。

俸餉

  • 国家の経費で禄餉より大きいものはない。
  • 洪武九年(1376年)、諸王・公主への年ごとの支給の数を定めた。親王は米五萬石、鈔二萬五千貫、錦四十匹、紵絲三百匹、紗・羅各百匹、絹五百匹、冬布・夏布各千匹、綿二千兩、鹽二百引、茶千斤で、いずれも年ごとの支給。馬の料草は月に五十匹分。縀疋は毎年、職人の材料を給して王府で自ら造らせた。
  • 靖江王は米萬石、鈔萬貫、その他の物は親王の半分、馬草は二十匹分。
  • 公主でまだ封を受けていない者は、紵絲・紗・羅各十疋、絹・冬布・夏布各三十匹、綿二百兩。すでに封を受けた者には莊田一所を賜い、年に糧千五百石、鈔二千貫を収めさせた。親王の子でまだ封を受けていない者は公主に準じ、女でまだ封を受けていない者はその半分。
  • 子がすでに郡王に封じられた場合は、米六千石、鈔二千八百貫、錦千匹(原文のまま)、紵絲五十疋、紗・羅は紵絲の半分、絹・冬布・夏布各百匹、綿五百兩、鹽五十引、茶三百斤、馬の料草十匹分。女ですでに封を受け嫁いだ者は米千石、鈔千四百貫。その縀疋は所在の親王国で造って給した。
  • 皇太子の次嫡子および庶子は、郡王に封じられても出閤(成人して府を出る)を待って初めて親王の子で郡王に封じられた者と同じ年賜を受け、女は嫁ぐのを待って親王の女ですでに嫁いだ者と同じとした。
  • 親王の世子は、すでに封じられた郡王と同じ。郡王の嫡長子で郡王を襲封した者は、始封の郡王の半分。女で縣主に封じられすでに嫁いだ者は米五百石、鈔五百貫、その他の物は親王の女で封を受けた者の半分。
  • 郡王の諸子は十五歳になるとそれぞれ田六十頃を賜い、租税を免じて永業とし、その子孫が世々守るものとした。後にこれを改め、禄米だけを支給することとした。
  • 二十八年(洪武二十八年・1395年)、官吏・軍士の俸給が広がりすぎたとして、諸王の年給を減らして軍国の用に充てるよう詔し、改めて定めた。親王は萬石、郡王は二千石、鎮國將軍は千石、輔國將軍・奉國將軍・鎮國中尉は二百石ずつ逓減、輔國中尉・奉國中尉は百石ずつ逓減。公主および駙馬は二千石、郡王および儀賓は八百石、縣主・郡君および儀賓は二百石ずつ逓減、縣君・鄉君と儀賓は百石ずつ逓減。以後これを永制とした。
  • 仁宗が即位して諸王の年禄を増減したのは常典ではない。当時、鄭・越・襄・荊・淮・滕・梁の七王がまだ藩に赴いていなかったので、暫定的に年に米三千石を給すこととし、これが例となった。
  • 正統十二年(1447年)、王府の禄米について、將軍は名を賜って封を受けた日から、縣主・儀賓は出閤・成婚の日から起算し、近隣の州縣の秋糧の内から支給することと定めた。
  • 景泰七年(1456年)、郡王・將軍以下の禄米について、出閤が先で受封が後の者は受封の日から、受封が先で出閤が後の者は出閤の日から起算すると定めた。
  • 宗室で罪により爵を革められた者を庶人といい、英宗の初めにはかなりの糧を給したが、嘉靖中は月に米六石、萬厯中は二石ないし一石に減らされた。
  • もともと太祖は宗藩を大いに封じ、世々みな年禄を食ませ、職に任じて事に当たらせなかった。親を親しむ誼は甚だ厚かったが、皇族は日に日に増え、民の賦は限りがある。当初、禄米はすべて本色(現物)で支給したが、やがて本色と鈔を兼ねて支給し、半々の者、本色が折色より多い者と、その割合は一様でなかった。その後は勢い支給しきれなくなり、冒濫(不正受給)がいよいよ増え、姦弊が百出して究めがたくなった。
  • 𢎞治年間から、禮部尚書の倪岳が節減して民力を寛くするよう条を挙げて請うていた。
  • 嘉靖四十一年(1562年)、御史の林潤が言った――天下の事で弊が極まり大いに憂うべきものは、宗藩の禄廩に過ぎるものはない。天下が毎年京師に供する糧は四百萬石だが、諸府の禄米は合計八百五十三萬石。山西では存留百五十二萬石に対し宗禄二百十二萬、河南では存留八十四萬三千石に対し宗禄百九十二萬。この二省の糧は全て納めても禄米の半分にも足りない。まして吏禄・軍餉もその中に含まれる。それゆえ郡王以上はなお厚く享けているが、將軍以上(以下)の多くは自活できず、飢寒と困辱は必至で、道端で号び有司をなじって集まり、守土の臣は常に変事を恐れている。賦は増やせず宗室は日に繁衍する。寒心せずにおれようか。大臣・科道に朝廷で議させ、諸王には行き詰まった以上通変せざるを得ない旨を諭し、户部に賦額を会計させ、十年を単位として兵災・凶荒の免除分、存留および王府の増封の数を通計し、善後の良策を陳べさせ、宸衷によって断じて万世不易の規を垂れるべきである――と。部の覆議に下され、これに従った。
  • 四十四年(1565年)に至って宗藩條例を定めた。郡王・將軍は七分を鈔に折り、中尉は六分を鈔に折り、郡主・縣主・郡君・縣君・鄉君および儀賓は八分を鈔に折り、その他の冒濫は多く裁減した。そこで諸王もまた年禄の辞退を奏し、少ない者で五百石、多い者で二千石に及んだ。歳出はやや緩んだが、將軍以下はますます自活できなくなった。
  • 明初、勲臣・外戚にはみな官田を賜って常禄に代えたが、その後は田を返させて禄米を給することとした。公は五千石から二千五百石、侯は千五百石から千石、伯は千石から七百石。
  • 百官の俸は、洪武の初めに丞相・御史大夫以下の年禄の数を定めて官署に刻石し、江南の官田から支給した。
  • 十三年(洪武十三年・1380年)、内外の文武官の年ごとの禄米・俸鈔の制を改めて定め、雜流の吏典もこれに付けた。正・從の一・二・三・四品の官は千石から三百石まで、一階ごとに百石ずつ逓減し、いずれも俸鈔三百貫を給す。正五品は二百二十石、從は五十石減、鈔はいずれも百五十貫。正六品は百二十石、從は十石減、鈔はいずれも九十貫。正・從七品は從六品からさらに十石ずつ逓減、鈔はいずれも六十貫。正八品は七十五石、從は五石減、鈔はいずれも四十五貫。正・從九品は從八品から五石ずつ逓減、鈔はいずれも三十貫。これを石に刻んだ。
  • 吏員の月俸は、一・二品官司の提控・都吏が二石五斗、掾史・令史が二石二斗、知印・承差・吏典が一石二斗。三・四品官司の令史・書吏・司吏が二石、承差・吏典はその半分。五品官司の司吏は一石二斗、吏典は八斗。六品以下の司吏は一石。光祿寺などの吏典は六斗。
  • 教官の禄は、州の學正が月米二石五斗、縣の教諭と府州縣の訓導が月米二石。
  • 首領官の禄は、内外の官司の提控案牘、州の吏目、縣の典史がいずれも月米三石。
  • 雜職の禄は、倉庫・関場・司局・鐵冶・遞運・批驗所の大使が月三石、副使が月二石五斗、河泊所官が月米二石、閘壩官が月米一石五斗。
  • 天下の学校の師生の廩膳米は一人一日一升、魚肉・鹽・醯の類は官が支給した。宦官の俸は月米一石。
  • 二十五年(洪武二十五年・1392年)、百官の禄を改めて定めた。正一品は月俸米八十七石、從一品から正三品まで十二石ずつ逓減して三十五石まで、從三品は二十六石、正四品は二十四石、從四品は二十一石、正五品は十六石、從五品は十四石、正六品は十石、從六品は八石、正七品から從九品までは五斗ずつ逓減して五石で止まる。以後これを永制とした。
  • 洪武の時、官俸はすべて米で支給し、時に錢・鈔を兼ねて支給し、錢一千・鈔一貫を米一石に当てた。
  • 成祖が即位すると、公・侯・伯はみな全額を米で支給させ、文武官の俸は米と鈔を兼ねて支給し、高官は十分の四、五を米、卑官は十分の七、八を米とした。ただし九品・雜職・吏典・知印・總旗・小旗・軍はみな全額を米で支給した。鈔に折る場合は米一石につき鈔十貫を給した。
  • 永樂二年(1404年)、公・侯・伯も文武官吏に準じて米・鈔を兼ねて支給させた。
  • 仁宗が立つと、官俸の折鈔は一石につき二十五貫にまで上がった。
  • 宣德八年(1433年)、禮部尚書の胡濙が户部を掌り、一石につき十貫を減らし、十分を基準として七分を絹に折り、絹一匹を鈔二百貫に当てると議した。少師の蹇義らは「仁宗は春宮に久しく在って官員の折俸の薄さを深く憫まれ、即位して特に数倍に増やされた。これは仁政である。どうして違えられよう」と言ったが、濙は聴かず、ついに帝に請うて実行した。かくして卑官の日々の暮らしは足りなくなった。
  • 正統中、五品以上は米二・鈔八、六品以下は米三・鈔七とした。当時、鈔の値は日ごとに下がり、一石につき十五貫だったものが次第に二十五貫に増えたが、户部尚書の王佐はまた奏して十五貫に減じた。
  • 成化二年(1466年)、户部尚書の馬昂の請いにより、さらに五貫を省いた。旧例では兩京の文武官の折色俸は、上半期は鈔で、下半期は蘇木・胡椒で支給していた。
  • 七年(成化七年・1471年)、户部尚書の楊鼎の請いにより、甲字庫に積んだ布を見積もって支給し、布一疋を鈔二百貫に当てた。当時は鈔法が行われず、一貫はわずかに錢二、三文の値でしかなく、米一石を鈔十貫に折ってもわずか二、三十錢、布の値はわずか二、三百錢だから、布一匹を米二十石に折ると米一石はわずか十四、五錢の値になる。古来、官俸の薄さでこれほどのものはなかった。
  • 十六年(成化十六年・1480年)、さらに三梭布で米に折り、一匹を三十石に当てさせ、その後は粗い広幅の棉帛も三十石に当てた。梭布の極めて細いものはなお銀二兩の値があったが、粗布はわずか三、四錢にすぎなかった。久しくして布一匹を銀三錢に折ると定めた。
  • こうして官員の俸給には二つ、本色と折色ができた。本色には三つあり、月米・折絹米・折銀米という。月米は官の大小を問わず一石。折絹は絹一匹を銀六錢に当て、折銀は六錢五分を米一石に当てる。折色には二つあり、本色鈔と絹布折鈔という。本色鈔は十貫を米一石に折り、後に二十貫に増えた。絹布折鈔は絹一疋を米二十石、布一疋を米十石に折る。
  • 公・侯の禄は、本色と折色が半々の者、折色が本色より多い者と差があった。文武官の俸は、正一品は本色がわずか十分の三、順に増して從九品では本色が十分の七となる。武職の府衞官は本色米を銀に折る例が一石につき二錢五分で文臣と異なり、その他はみな同じ。
  • 三大營の副將・參將・遊撃・佐員は月に米五石、巡捕營の提督・參將も同じ。巡捕の中官・把總官は月に口糧九斗、旗牌官はその半分。
  • 天下の衛所の軍士の月糧は、洪武中の定めで、京・外衛の馬軍は月に米二石、步軍の總旗は一石五斗、小旗は一石二斗、軍は一石。城守の者は数のとおり給し、屯田の者は半分。民匠から軍に充てた者は八斗。牧馬千户所は一石。民丁で軍に編入され操練する者は一石。江陰・横海の水軍の稍班・碇手は一石五斗。陣亡・病故した軍には喪費として一石を給し、営中で病故した者はその半分。籍没されて死を免れ軍に充てられた者を恩軍といい、家族四口以上は一石、三口以下は六斗、家口のない者は四斗。
  • また軍士に月々の鹽を給し、家口のある者は二斤、ない者は一斤。在外の衞所の軍士には鈔をもって換算した。
  • 永樂中、糧の多い地の旗軍の月糧は八分を米、二分を鈔で支給させ、後に山西・陝西もこれに倣った。福建・兩廣・四川は米七・鈔三、江西は米・鈔半々。ただし京軍および中都留守司・河南・浙江・湖廣の軍はなお全額米で支給した。
  • やがて制を定め、衛軍で家属のある者は月米六斗、ない者は四斗五升、残りはみな鈔に折った。各衞から京に調され操練に備え工作を兼ねる軍は米五斗。その後の増減は一様でなく、本色・折色の割合も鎮ごとに多寡が異なり、すべては挙げられない。
  • 各鎮の兵餉には、屯糧・民運・鹽引・京運・主兵年例・客兵年例がある。屯糧とは、明初は各鎮みな屯田があり、一軍の田で一軍の用を賄い、衞所の官吏の俸糧もそこから支給したものをいう。民運とは、屯糧が足りない分を民の糧――麥・米・豆・草・布・鈔・花絨――で補い、戍卒に運んで支給するもので、それゆえ民運という。後には多く銀に折る議が出た。鹽引とは、商を召して粟を納めさせる開中で、商屯が糧を出して軍屯と表裏をなしたが、その後は銀を運司に納めるようになり、名は存して実は亡んだ。京運は正統中から始まり、後には屯糧・鹽糧の多くが廃れて京運が日に日に増えた。
  • 主兵には常数があるが、客兵には常数がない。初めは各鎮の主兵でその地を守るに足りたが、後に次第に足りなくなり、募兵を増し、募兵でも足りずに客兵を増した。兵が多くなるほど坐して食む者が増え、年例もまた日々増えたという。

㑹計

  • 明の田稅および経費の出入の数で、記録に見えるものはおおむね考証できる。
  • 洪武二十六年(1393年)、官田・民田の総計は八百五十萬七千餘頃。夏稅の米麥は四百七十一萬七千餘石、錢鈔三萬九千餘錠、絹二十八萬八千餘匹。秋糧の米は二千四百七十二萬九千餘石、錢鈔五千餘錠。
  • 𢎞治の時、官田・民田の総計は六百二十二萬八千餘頃。夏稅の米麥は四百六十二萬五千餘石、鈔五萬六千三百餘錠、絹二十萬二千餘匹。秋糧の米は二千二百十六萬六千餘石、鈔二萬一千九百餘錠。
  • 萬厯の時、官田・民田の総計は七百一萬三千餘頃。夏稅の米麥は総計四百六十萬五千餘石、うち起運(京への輸送分)が百九十萬三千餘石、残りはすべて存留。鈔五萬七千九百餘萬(底本のまま)、絹二十萬六千餘匹。秋糧の米は総計二千三百三萬三千餘石、うち起運が千三百三十六萬二千餘石、残りはすべて存留。鈔二萬三千六百餘錠。屯田は六十三萬五千餘頃、花園・倉基は千九百餘所、徴収する糧は四百五十八萬四千餘石、糧草を銀に折って八萬五千餘兩、布五萬匹、鈔五萬餘貫。各運司・提舉の大引・小引の鹽は二百二十二萬八千餘引。
  • 歳入の数――内承運庫は、慈寧・慈慶・乾清の三宫の子粒銀四萬九千餘兩、金花銀百一萬二千餘兩、金二千兩。廣恵庫は、河西務など七鈔関の鈔二千九百二十八萬餘貫、錢五千九百七千七萬餘文、京衞の屯鈔五萬六千餘貫。天財庫は、京城九門の鈔六十六萬五千餘貫、錢二百四十三萬餘文。京倉・通倉ならびに薊州・密雲などの諸鎮の漕糧四百萬石、京衞の屯豆二萬三千餘石。
  • 太倉銀庫は、南北直隸・浙江・江西・山東・河南の派剩の麥米を銀に折って二十五萬七千餘兩、絲綿稅絲・農桑絹を銀に折って九萬餘兩、綿布・苧布を銀に折って三萬八千餘兩、百官の禄米を銀に折って二萬六千餘兩、馬草を銀に折って三十五萬三千餘兩、京の五草場を銀に折って六萬三千餘兩、各馬房倉の麥・豆・草を銀に折って二十餘萬兩、户口鹽鈔を銀に折って四萬六千餘兩、薊州・密雲・永平・昌平・易州・遼東の六鎮の民運を銀に改めて解送した分八十五萬三千餘兩、各鹽運司・提舉の餘鹽・鹽課・鹽稅の銀百萬二十餘兩、黄蠟・白蠟を銀に折って六萬八千餘兩、霸州・大興などの馬房の子粒銀二萬三千餘兩、備邊ならびに新増の地畝銀四萬五千餘兩、京衞の屯牧地の増銀一萬八千餘兩、崇文門の商稅・牙稅一萬九千餘兩と錢一萬八千餘貫、張家灣の商稅二千餘兩と錢二千八百餘貫、諸鈔関の折銀二十二萬三千餘兩、泰山の香稅二萬餘兩、贓罰銀十七萬餘兩、商稅・魚課・富户・暦日・民壯・弓兵ならびに屯折・改折の月糧の銀十四萬四千餘兩、北直隸・山東・河南から各辺鎮へ解送する麥・米・豆・草・鹽鈔の折銀八十四萬二千餘兩。その他の雑物で条目の煩瑣なものは載せない。ここに載せた歳入は京師と辺鎮へ起運する分のみを計上し、存留は含めない。
  • 歳出の数――公・侯・駙馬・伯の禄米を銀に折って一萬六千餘兩。官吏・監生の俸米四萬餘石。官吏の折俸の絹布銀四萬四千餘兩、錢三千三百餘貫。倉庫・草場の官攢・甲斗、光禄寺・太常寺の諸司および内府の監局の匠役へは本色米八萬六千餘石、折色銀一萬三千餘兩。錦衣衛など七十八の衞所の官吏・旗校・軍士・匠役へは本色米二百一萬八千餘石、折色銀二十萬六千餘兩。官員の折俸の絹布銀二十六萬八千餘兩。軍士の冬衣を布に折って銀八萬二千餘兩。五軍・神樞・神機の三大營の将卒へ本色米十二萬餘石、冬衣の折布銀二千餘兩。官軍の防秋三ヶ月の口糧四萬三千餘石。営操の馬匹の本色の飼料二萬四千餘(底本は「户」に作る。石の誤りか)、草八十萬餘束。巡捕營の軍糧七千餘石。京營・巡捕營・錦衣衛・騰驤などの諸衛の馬料草を銀に折って五萬餘兩。中都留守司・山東・河南の二都司の班軍の行糧および工役・鹽糧を銀に折って五萬餘兩。京の五草場の商価一萬六千餘兩。御馬三倉・象房・馬房などの商価十四萬八千餘兩。
  • 諸辺および京に近い鎮の兵餉――宣府は、主兵の屯糧十三萬二千餘石、折色銀二萬二千餘兩、民運の折色銀七十八萬七千餘兩、兩淮・長蘆・河東の鹽引銀十三萬五千餘兩、京運の年例銀十二萬五千兩。客兵は、淮・蘆の鹽引銀二萬六千餘兩、京運の年例銀十七萬一千兩。
  • 大同は、主兵の屯糧の本色七萬餘石、折色銀一萬六千餘兩、牛具銀八千餘兩、鹽鈔銀一千餘兩、民運の本色米七千餘石、折色銀四十五萬六千餘兩、屯田および民運の本色草二百六十八萬餘束、折草銀二萬八千餘兩、淮・蘆の鹽四萬三千餘引、京運の年例銀二十六萬九千餘兩。客兵は、京運銀十八萬一千兩、淮・蘆の鹽七萬引。
  • 山西は、主兵の屯糧二萬八千餘石、折色銀一千餘兩、草九萬五千餘束、民運の本色の米豆二萬一千餘石、折色銀三十二萬二千餘兩、淮・浙・山東の鹽引銀五萬七千餘兩、河東の鹽課銀六萬四千餘兩、京運銀十二萬三千餘兩。客兵は、京運銀七萬三千兩。
  • 延綏は、主兵の屯糧五萬六千餘石、地畝銀一千餘兩、民運の糧料九萬七十餘石、折色銀十九萬七千餘兩、屯田および民運の草六萬九千餘束、淮・浙の鹽引銀六萬七千餘兩、京運の年例銀三十五萬七千餘兩。客兵は、淮・浙の鹽引銀二萬九千餘兩、京運の年例銀二萬餘兩。
  • 寧夏は、主兵の屯糧料十四萬八千餘石、折色銀一千餘兩、地畝銀一千餘兩、民運の本色糧千餘石、折色銀十萬八千餘兩、屯田および民運の草百八十三萬餘束、淮・浙の鹽引銀八萬一千餘兩、京運の年例銀二萬五千兩。客兵は、京運の年例銀萬兩。
  • 甘肅は、屯糧料二十三萬二千餘石、草四百三十餘萬束、折草銀二千餘兩、民運の糧・布を銀に折って二十九萬四千餘兩、京運銀五萬一千餘兩、淮・浙の鹽引の余り十萬二千餘兩。
  • 固原は、屯糧料三十一萬九千餘石、折色の糧料・草の銀四萬一千餘兩、地畝・牛具の銀七千一百餘兩、民運の本色の糧料四萬五千餘石、折色の糧料・草・布・花の銀二十七萬九千餘兩、屯田および民運の草二十萬八千餘束、淮・浙の鹽引銀二萬五千餘兩、京運銀六萬三千餘兩、犒賞銀百九十餘兩。
  • 遼東は、主兵の屯糧二十七萬九千餘石、荒田の糧四百餘兩、民運銀十五萬九千餘兩、兩淮・山東の鹽引銀三萬九千餘兩、京運の年例銀三十萬七千餘兩。客兵は、京運の年例銀十萬二千餘兩。
  • 薊州は、主兵の民運銀九千餘兩、漕糧五萬石、京運の年例銀二十萬六千餘兩。客兵は、屯糧料五萬三千餘石、地畝・馬草の折色銀一萬六千餘兩、民運銀一萬八千餘兩、山東の民兵の工食銀五萬六千兩、遵化營の民壯の工食銀四千餘兩、鹽引銀一萬三千餘兩、京運の年例銀二十萬八千餘兩、撫賞銀一萬五千兩、犒軍銀一萬三千餘兩。
  • 永平は、主兵の屯糧料三萬三千餘石、民運の糧料二萬七千餘石、折色銀二萬八千餘兩、民壯の工食銀一萬二千餘兩、京運の年例銀十二萬二千餘兩。客兵は、屯草の折銀三千餘兩、民運の草三十一萬一千餘束、京運銀十一萬九千餘兩。
  • 密雲は、主兵の屯糧六千餘石、地畝銀二百九十兩、民運銀萬兩あまり、漕糧十萬四千餘石、京運銀十六萬兩あまり。客兵は、民運銀一萬六千餘兩、民壯の工食銀九百餘兩、漕糧五萬石、京運銀二十三萬三千餘兩。
  • 昌平は、主兵の屯糧の折色銀二千四百餘兩、地畝銀五百餘兩、折草銀百餘兩、民運銀二萬兩あまり、漕糧十八萬九千餘石、京運の年例銀九萬六千餘兩。客兵は、京運の年例銀四萬七千餘兩。
  • 易州は、主兵の屯糧二萬三千餘石、地畝銀六百餘兩、民運銀三十萬六千餘兩。客兵は、京運銀五萬九千兩。
  • 井陘は、主兵の屯糧一萬四千餘石、地畝銀八千餘兩、民運の本色の米麥一萬七千餘石、折色銀四萬八千餘兩。客兵は、京運の年例銀三千餘兩。
  • そのほかの雑費は載せない。